野火止用水 @埼玉県新座市
2011年5月15日(日)
平林寺の見学を終え、野火止用水本流にやって来ました。
平林寺の西側、国指定天然記念物の平林寺境内林に沿って本流が流れており、陣屋通りから国道254号(川越街道)まで距離にして1.5kmくらいだと思います。
野火止用水の流れに沿って自転車を走らせると、とても気分が良く、のんびりと散歩するにも良いコースかと思います。
簡単に野火止用水の説明をしますと
武蔵野の中でも野火止台地は特に高燥な土地で水利に恵まれていませんでした。川越城主松平信綱は私領である野火止を開発するために玉川上水から三割の分水許可を得て、明暦元年(1655年)野火止用水を開削しました。工事は家臣の安松金右衛門に命じて行われ、当初東京都下の小平市小川町から志木市の新河岸川の約25kmについて開削しましたが、後に新河岸川にいろは48の樋(いろは樋)を架けて、志木市宗岡の水田地帯を潤すようになりました。幹線水路は本流を含めて4流あり、末端は樹枝状に分れています。支流は通称「菅沢・北野堀」「平林寺堀」「陣屋堀」と呼ばれています。用水敷は概ね4間(7.2m)あり、水路敷2間を中にして、その両側に1間ずつの土あげ敷をもっていました。水路は地形的に高いところを選んで繋がれ、屋敷内に引水したり、畑地への灌漑及び沿線の乾燥化防止に果たした役割は極めて大きいものでした。昭和37~38年頃までは付近の人々の生用水として利用されていましたが、急激な都市化の影響により水は次第に汚濁し、流れに泳ぐ魚や用水で遊ぶ子供たちの姿を見ることはできなくなってしまいました。そこで昭和49年から東京都と埼玉県新座市で復原・清流復活の事業に着手し、本流と平林寺堀の一部を復原しました。
野火止用水は埼玉県指定史跡になっています。
【野火止用水本流】埼玉県指定史跡
『陣屋通りの伊豆殿橋付近です。川越城主松平伊豆守信綱に因んで名付けられた橋です。また野火止用水は別名伊豆殿堀とも呼ばれます』

【説明板】

『細いながらも綺麗な流れです^^』










2011年5月19日投稿
平林寺の見学を終え、野火止用水本流にやって来ました。
平林寺の西側、国指定天然記念物の平林寺境内林に沿って本流が流れており、陣屋通りから国道254号(川越街道)まで距離にして1.5kmくらいだと思います。
野火止用水の流れに沿って自転車を走らせると、とても気分が良く、のんびりと散歩するにも良いコースかと思います。
簡単に野火止用水の説明をしますと
武蔵野の中でも野火止台地は特に高燥な土地で水利に恵まれていませんでした。川越城主松平信綱は私領である野火止を開発するために玉川上水から三割の分水許可を得て、明暦元年(1655年)野火止用水を開削しました。工事は家臣の安松金右衛門に命じて行われ、当初東京都下の小平市小川町から志木市の新河岸川の約25kmについて開削しましたが、後に新河岸川にいろは48の樋(いろは樋)を架けて、志木市宗岡の水田地帯を潤すようになりました。幹線水路は本流を含めて4流あり、末端は樹枝状に分れています。支流は通称「菅沢・北野堀」「平林寺堀」「陣屋堀」と呼ばれています。用水敷は概ね4間(7.2m)あり、水路敷2間を中にして、その両側に1間ずつの土あげ敷をもっていました。水路は地形的に高いところを選んで繋がれ、屋敷内に引水したり、畑地への灌漑及び沿線の乾燥化防止に果たした役割は極めて大きいものでした。昭和37~38年頃までは付近の人々の生用水として利用されていましたが、急激な都市化の影響により水は次第に汚濁し、流れに泳ぐ魚や用水で遊ぶ子供たちの姿を見ることはできなくなってしまいました。そこで昭和49年から東京都と埼玉県新座市で復原・清流復活の事業に着手し、本流と平林寺堀の一部を復原しました。
野火止用水は埼玉県指定史跡になっています。
【野火止用水本流】埼玉県指定史跡
『陣屋通りの伊豆殿橋付近です。川越城主松平伊豆守信綱に因んで名付けられた橋です。また野火止用水は別名伊豆殿堀とも呼ばれます』

【説明板】

『細いながらも綺麗な流れです^^』










2011年5月19日投稿