熊谷陸軍飛行学校桶川分教場(桶川飛行学校)跡 @埼玉県桶川市
2013年1月6日(日)
本田航空(ホンダエアポート)の見学を終え、熊谷陸軍飛行学校桶川分教場跡にやって来ました。
熊谷陸軍飛行学校桶川分教場(桶川飛行学校)は、昭和10年に開校した熊谷陸軍飛行学校(現在の航空自衛隊熊谷基地)の分教場として、昭和12年6月埼玉県北足立郡川田谷村に開校しました。
滑走路は、現在の本田航空の滑走路と同じ位置にあり、川島町側、本田航空の社屋脇の堤防から滑走路に向かう広々としたところには、格納庫と現地事務所がありました。
旧陸軍桶川飛行学校を語り継ぐ会の方の説明によると、飛行学校の兵舎が現存するのはここだけで、終戦後、大陸からの引揚者などの住居となり、平成19年3月まで人が住んでいたため、取り壊されず残ったそうです。
詳細については旧陸軍桶川飛行学校を語り継ぐ会のホームページをご覧頂ければと思います。
『桶川方面から荒川に架かる太郎右衛門橋の手前の脇道に入ります』

『小さな案内板があるだけなので、最近までその存在に気付きませんでした』

【熊谷陸軍飛行学校桶川分教場跡】
『左が守衛所、正面が兵舎、右が車庫です』

【境界杭】

『公開日が土曜、日曜、祭日に限られています』

【守衛所】



『敷地がまだ国所有だった時の解説文です。平成22年1月に敷地を桶川市が国から買い取りました』

【建物配置図】
『太線の建物が現存しています』

【弾薬庫】

『結構広い敷地です』

【車庫】
『戦後はここも住居として使用されていたようです』




『位置的に事務所があったところだと思います』

『兵舎に近づくと語り継ぐ会の方が出てきて説明してくださいました』



『昭和50年頃の写真です。左は現存する兵舎、右は食堂、風呂棟でしたが焼失したそうです』

【兵舎】
『戦前の建物ですから傷んでいる箇所も多々あります。悲惨な戦争を後世に伝えることができる貴重な建物なので大切に保存してほしいです』





『では、建物内に入って行きましょう』

【略図】
『滑走路は現在のホンダエアポートの滑走路より長かったんですね』

【戦時中の飛行機】
『写真真ん中の九五式一型練習機が16、17機あり、オレンジ色の機体から通称「赤とんぼ」と呼ばれていたそうです』

【「特別攻撃隊員」を募る檄文】

『入口からまっすぐ進むと・・・』

『昔の当時のままの厠がありました。平成19年まで使われていたそうです』



『兵舎の北側に本田航空の燃料施設があります。以前この場所に本田航空の本社がありました』

【防火水槽】

【兵舎内部】

『床以外はほぼ当時のものだそうです』

『写真を中心とした様々な展示物があります』



【特別攻撃隊 第79振武隊】
『昭和20年2月以降は特攻隊の訓練基地となり、同年4月5日、陸軍初の練習機による特攻となる第79振武特別攻撃隊12名が知覧基地に向け出発しました』



【特別攻撃隊 第23振武隊】
『特攻隊員はどんな気持ちだったのでしょうね?お国のために、愛する人を守るためにと、喜んで志願した人もいたでしょうし、強制された人もいるでしょうからね。いずれにしても、特攻という作戦を考えた軍上層部は許せないです。人を虫けら扱いですもんね(-- こんな作戦をとらなければならない程、日本は資材も人材も困窮していた訳ですから、既に敗戦が見えていたのではないでしょうか』


【死亡告知書】
『薄っぺらい小さいな紙切れ一枚渡された家族は、無念だったでしょうね・・・』

『ビデオを見ることができます』

『軍衣や鉄兜などが展示されています』



『無線機、電話機のようです』

【「学鷲」と「アサヒグラフ」の写真】







『隼戦闘隊の戦友会のことみたいです』

『昭和20年3月~7月の間で、陸軍特別攻撃隊では1036人が戦死したそうです。特攻で戦死した人は何人くらいいるのかと思い、調べてみたところ、正確かは分かりませんが、航空隊の特攻で亡くなった方は海軍で2531名、陸軍で1417名、合計で3948名なのだそうです。余談ですが、恥ずかしながら当時の日本軍に空軍がないことを今回初めて知りました。特攻隊=飛行機のイメージだったので、当然空軍だろうと思い込んでいました。その件を日本史が得意な友人に話したら、そうだよとあっさり言われ、自分の無知さに呆れましたwww』

『若い人が多かったというか、若い人しか残っていなかったんですかね?』

『人生17~18年で終わりですか~・・・お国のための名誉の死と言われても、現在ではピンとこないです。若者はもっとピンとこないのではないでしょうか。就職難、貧困の差など国は抜本的な対策をしてくれませんからね』

【階級】

【モールス信号表】

『広いエリアで戦いがあったのですね。改めてよく分かりました』

『海軍大将山本五十六はアメリカとの国力、軍事力の違いを認識しており、本当は戦争に反対していたのだそうです』

【飛行機の種類】

『住居だった時の名残でしょうかwww』

『第4展示室まであります。少年飛行兵の展示でした』



住所:埼玉県桶川市川田谷2335
ホームページ:http://www.okegawa-hiko.jp/
2014年2月25日投稿
本田航空(ホンダエアポート)の見学を終え、熊谷陸軍飛行学校桶川分教場跡にやって来ました。
熊谷陸軍飛行学校桶川分教場(桶川飛行学校)は、昭和10年に開校した熊谷陸軍飛行学校(現在の航空自衛隊熊谷基地)の分教場として、昭和12年6月埼玉県北足立郡川田谷村に開校しました。
滑走路は、現在の本田航空の滑走路と同じ位置にあり、川島町側、本田航空の社屋脇の堤防から滑走路に向かう広々としたところには、格納庫と現地事務所がありました。
旧陸軍桶川飛行学校を語り継ぐ会の方の説明によると、飛行学校の兵舎が現存するのはここだけで、終戦後、大陸からの引揚者などの住居となり、平成19年3月まで人が住んでいたため、取り壊されず残ったそうです。
詳細については旧陸軍桶川飛行学校を語り継ぐ会のホームページをご覧頂ければと思います。
『桶川方面から荒川に架かる太郎右衛門橋の手前の脇道に入ります』

『小さな案内板があるだけなので、最近までその存在に気付きませんでした』

【熊谷陸軍飛行学校桶川分教場跡】
『左が守衛所、正面が兵舎、右が車庫です』

【境界杭】

『公開日が土曜、日曜、祭日に限られています』

【守衛所】



『敷地がまだ国所有だった時の解説文です。平成22年1月に敷地を桶川市が国から買い取りました』

【建物配置図】
『太線の建物が現存しています』

【弾薬庫】

『結構広い敷地です』

【車庫】
『戦後はここも住居として使用されていたようです』




『位置的に事務所があったところだと思います』

『兵舎に近づくと語り継ぐ会の方が出てきて説明してくださいました』



『昭和50年頃の写真です。左は現存する兵舎、右は食堂、風呂棟でしたが焼失したそうです』

【兵舎】
『戦前の建物ですから傷んでいる箇所も多々あります。悲惨な戦争を後世に伝えることができる貴重な建物なので大切に保存してほしいです』





『では、建物内に入って行きましょう』

【略図】
『滑走路は現在のホンダエアポートの滑走路より長かったんですね』

【戦時中の飛行機】
『写真真ん中の九五式一型練習機が16、17機あり、オレンジ色の機体から通称「赤とんぼ」と呼ばれていたそうです』

【「特別攻撃隊員」を募る檄文】

『入口からまっすぐ進むと・・・』

『昔の当時のままの厠がありました。平成19年まで使われていたそうです』



『兵舎の北側に本田航空の燃料施設があります。以前この場所に本田航空の本社がありました』

【防火水槽】

【兵舎内部】

『床以外はほぼ当時のものだそうです』

『写真を中心とした様々な展示物があります』



【特別攻撃隊 第79振武隊】
『昭和20年2月以降は特攻隊の訓練基地となり、同年4月5日、陸軍初の練習機による特攻となる第79振武特別攻撃隊12名が知覧基地に向け出発しました』



【特別攻撃隊 第23振武隊】
『特攻隊員はどんな気持ちだったのでしょうね?お国のために、愛する人を守るためにと、喜んで志願した人もいたでしょうし、強制された人もいるでしょうからね。いずれにしても、特攻という作戦を考えた軍上層部は許せないです。人を虫けら扱いですもんね(-- こんな作戦をとらなければならない程、日本は資材も人材も困窮していた訳ですから、既に敗戦が見えていたのではないでしょうか』


【死亡告知書】
『薄っぺらい小さいな紙切れ一枚渡された家族は、無念だったでしょうね・・・』

『ビデオを見ることができます』

『軍衣や鉄兜などが展示されています』



『無線機、電話機のようです』

【「学鷲」と「アサヒグラフ」の写真】







『隼戦闘隊の戦友会のことみたいです』

『昭和20年3月~7月の間で、陸軍特別攻撃隊では1036人が戦死したそうです。特攻で戦死した人は何人くらいいるのかと思い、調べてみたところ、正確かは分かりませんが、航空隊の特攻で亡くなった方は海軍で2531名、陸軍で1417名、合計で3948名なのだそうです。余談ですが、恥ずかしながら当時の日本軍に空軍がないことを今回初めて知りました。特攻隊=飛行機のイメージだったので、当然空軍だろうと思い込んでいました。その件を日本史が得意な友人に話したら、そうだよとあっさり言われ、自分の無知さに呆れましたwww』

『若い人が多かったというか、若い人しか残っていなかったんですかね?』

『人生17~18年で終わりですか~・・・お国のための名誉の死と言われても、現在ではピンとこないです。若者はもっとピンとこないのではないでしょうか。就職難、貧困の差など国は抜本的な対策をしてくれませんからね』

【階級】

【モールス信号表】

『広いエリアで戦いがあったのですね。改めてよく分かりました』

『海軍大将山本五十六はアメリカとの国力、軍事力の違いを認識しており、本当は戦争に反対していたのだそうです』

【飛行機の種類】

『住居だった時の名残でしょうかwww』

『第4展示室まであります。少年飛行兵の展示でした』



住所:埼玉県桶川市川田谷2335
ホームページ:http://www.okegawa-hiko.jp/
2014年2月25日投稿