功運寺周辺の寺院めぐり《宝泉寺/境妙寺/願正寺/金剛寺/神足寺》 @東京都中野区
2012年12月11日(火)
功運寺の見学を終え、周辺の寺院をめぐってみることにしました。
功運寺から南方面へ50m程のところに宝泉寺があります。
【宝泉寺】
『山号を正覚山を号する曹洞宗の寺院です。当寺は永禄五年(1562年)駒込吉祥寺三世・圭隆大和尚により江戸清水門外に創建されました。その後、慶長年間に田安門外に移転、さらに元和二年(1616年)には江戸城拡張のため牛込横寺町に移転。その後、明治41年(1909年)現在地に移転しました』

【寺号標】

『板倉内膳正重昌の墓所があるそうです』

『面白い形をしてますね^^』

【山門】

『写真右の建物が本堂です』


【本堂】

【板倉内膳正重昌の墓】


(宝泉寺)
住所:東京都中野区上高田4-13-1
電話:03-3385-2106
宝泉寺から北東方面へ50m程のところに境妙寺があります。
【境妙寺】
『山号を大雄山普照院を号する天台宗の寺院です。天台宗東京教区のホームページによると、当寺の縁起は「当寺は元日蓮宗に属し、高耀山寂光寺と称して麹町地獄谷の地にありました。寛永6年(1629年)御城廓造営の時、千駄ケ谷(現・国立競技場所在地)に移転しました。元禄11年(1698年)天台宗に改宗しました。台宗開基は貞栄、一説には、日蓮宗不受不施派弾圧によるものと言われています。安永年間には紀州家の下屋敷が千駄ケ谷にあった関係か、紀伊公邸霊堂の別当に命ぜられました。そのために今でも、本堂の瓦には葵の紋があり、徳川家ゆかりの寺などに見られる黒門が寺門となっています。天保5年(1834年)中興十世智順の代に大雄山普照院境妙寺と改称しました。のち大正4年(1915年)明治神宮外苑造営の折、現在の地に移転し今日に至ります。当寺に保管されている過去帳には塙保己一の名があります。塙保己一は、和漢に通じ40年を費して『群書類従』を完成させました。」なのだそうです』
【山門】

『詳細はよく分かりませんが、天台宗と聖徳太子は縁があるみたいです』

【本堂】

(境妙寺)
住所:東京都中野区上高田4-9-3
電話:03-3385-7609
ホームページ:http://www.tendaitokyo.jp/jiinmei/kyomyoji/(天台宗東京教区)
境妙寺から東方面へ20m程のところに願正寺があります。
【願正寺】
『山号を東護山と号する浄土真宗大谷派の寺院です。中山石渠さんのホームページによると、当寺の縁起は「当寺は、天正十八年(1590年)に開基である法樹院安養坊了善法師が外神田に創建したもので、本尊に阿弥陀如来を奉る。開山当初は光瑞寺と号していたが、のち本願寺に属し、寺号を願正寺と改めた。寛永の頃は麹町にあったが、江戸城の外濠を造るため、延宝八年(1680年)牛込原町に転じ、明治四十三年(1910年)に現在の地へ移転した。墓地には、外国奉行・新見豊前守正興とその父親で大阪町奉行を務めた新見正路の墓がある。新見豊前守は万延元年(1860年)に、アメリカ軍艦に乗って日米修交通商条約の批准書交換のため渡米した。大正七年(1918年)にモーリス、昭和三十五年(1950年)にはマッカーサー駐日大使が、日米修交の大役を果した新見正興の墓を詣で、日米親善の記念樹を植えている。また砲術家として知られる井上外記の墓もある。」なのだそうです』

【新見豊前守正興の墓説明板】

(願正寺)
住所:東京都中野区上高田4-10-1
電話:03-3386-6618
願正寺から北西方面へ50m程のところに金剛寺があります。
【金剛寺】
『山号を恵日山と号する曹洞宗の寺院です。金剛寺は建長二年(1250年)波多野中務忠経が源実朝の菩提のため狐舟を開山として建立しました。文明年間に太田道灌が中興し、のち荒廃しましたが徳川家康が用山元照に再興させ、その時臨済宗から曹洞宗に改宗し、更に昭和になって地下鉄丸の内線開通の為に文京区から現在地に移転しました』


(金剛寺)
住所:東京都中野区上高田4-9-8
電話:03-3385-7606
金剛寺から西方面へ100m程のところに神足寺があります。
【神足寺】
『山号を月岬山と号する浄土真宗大谷派の寺院です。本堂の前にあった〈沿革〉によると「当時は慶長12年に江戸木挽町に土地を拝領し、行心和上を開基として創設し、月岬山神足寺と号した。その後、八丁堀に、西久保赤羽に、三田村(現・港区)にと建立以来三ヶ所を移転したが、三田村においては長く聞法の場として門信徒の教法につとめたが、明治43年、当寺16代憲英住職の時、現在の地に本堂、庫裡をそのまま移転した。昭和33年には本堂の改築がなされた。開基の行心和上は百年以上にわたる一向一揆の天正七年に、本願寺11世顕如上人、12世教如上人の二人を中心とする軍勢が織田信長軍と戦っている時、伊豆の武士で伊東氏として織田軍に加わっていた。その時、織田の陣地に教如上人の書いた手紙が矢に結ばれて射こまれた。ちょうどそこにいた伊東氏は手紙を読んで、信長の軍がいかに誤っていて、本願寺派の主張が正しいかを知らされた。伊東氏は教如上人の意見に感服し、信長の陣をそっと去り、本願寺の味方となり、一揆の後に大谷派の僧侶となり行心と改めた。」なのだそうです』
『金剛寺から細い道を進みます』

『どうやらこの道は正面の参道ではないみたいですね』

【山門】

【本堂】


【縁起】

『帰りはくねくねと坂道を降り、正面参道から帰りました』

(神足寺)
住所:東京都中野区上高田4-11-1
電話:03-3386-4528
2013年10月19日投稿
功運寺の見学を終え、周辺の寺院をめぐってみることにしました。
功運寺から南方面へ50m程のところに宝泉寺があります。
【宝泉寺】
『山号を正覚山を号する曹洞宗の寺院です。当寺は永禄五年(1562年)駒込吉祥寺三世・圭隆大和尚により江戸清水門外に創建されました。その後、慶長年間に田安門外に移転、さらに元和二年(1616年)には江戸城拡張のため牛込横寺町に移転。その後、明治41年(1909年)現在地に移転しました』

【寺号標】

『板倉内膳正重昌の墓所があるそうです』

『面白い形をしてますね^^』

【山門】

『写真右の建物が本堂です』


【本堂】

【板倉内膳正重昌の墓】


(宝泉寺)
住所:東京都中野区上高田4-13-1
電話:03-3385-2106
宝泉寺から北東方面へ50m程のところに境妙寺があります。
【境妙寺】
『山号を大雄山普照院を号する天台宗の寺院です。天台宗東京教区のホームページによると、当寺の縁起は「当寺は元日蓮宗に属し、高耀山寂光寺と称して麹町地獄谷の地にありました。寛永6年(1629年)御城廓造営の時、千駄ケ谷(現・国立競技場所在地)に移転しました。元禄11年(1698年)天台宗に改宗しました。台宗開基は貞栄、一説には、日蓮宗不受不施派弾圧によるものと言われています。安永年間には紀州家の下屋敷が千駄ケ谷にあった関係か、紀伊公邸霊堂の別当に命ぜられました。そのために今でも、本堂の瓦には葵の紋があり、徳川家ゆかりの寺などに見られる黒門が寺門となっています。天保5年(1834年)中興十世智順の代に大雄山普照院境妙寺と改称しました。のち大正4年(1915年)明治神宮外苑造営の折、現在の地に移転し今日に至ります。当寺に保管されている過去帳には塙保己一の名があります。塙保己一は、和漢に通じ40年を費して『群書類従』を完成させました。」なのだそうです』
【山門】

『詳細はよく分かりませんが、天台宗と聖徳太子は縁があるみたいです』

【本堂】

(境妙寺)
住所:東京都中野区上高田4-9-3
電話:03-3385-7609
ホームページ:http://www.tendaitokyo.jp/jiinmei/kyomyoji/(天台宗東京教区)
境妙寺から東方面へ20m程のところに願正寺があります。
【願正寺】
『山号を東護山と号する浄土真宗大谷派の寺院です。中山石渠さんのホームページによると、当寺の縁起は「当寺は、天正十八年(1590年)に開基である法樹院安養坊了善法師が外神田に創建したもので、本尊に阿弥陀如来を奉る。開山当初は光瑞寺と号していたが、のち本願寺に属し、寺号を願正寺と改めた。寛永の頃は麹町にあったが、江戸城の外濠を造るため、延宝八年(1680年)牛込原町に転じ、明治四十三年(1910年)に現在の地へ移転した。墓地には、外国奉行・新見豊前守正興とその父親で大阪町奉行を務めた新見正路の墓がある。新見豊前守は万延元年(1860年)に、アメリカ軍艦に乗って日米修交通商条約の批准書交換のため渡米した。大正七年(1918年)にモーリス、昭和三十五年(1950年)にはマッカーサー駐日大使が、日米修交の大役を果した新見正興の墓を詣で、日米親善の記念樹を植えている。また砲術家として知られる井上外記の墓もある。」なのだそうです』

【新見豊前守正興の墓説明板】

(願正寺)
住所:東京都中野区上高田4-10-1
電話:03-3386-6618
願正寺から北西方面へ50m程のところに金剛寺があります。
【金剛寺】
『山号を恵日山と号する曹洞宗の寺院です。金剛寺は建長二年(1250年)波多野中務忠経が源実朝の菩提のため狐舟を開山として建立しました。文明年間に太田道灌が中興し、のち荒廃しましたが徳川家康が用山元照に再興させ、その時臨済宗から曹洞宗に改宗し、更に昭和になって地下鉄丸の内線開通の為に文京区から現在地に移転しました』


(金剛寺)
住所:東京都中野区上高田4-9-8
電話:03-3385-7606
金剛寺から西方面へ100m程のところに神足寺があります。
【神足寺】
『山号を月岬山と号する浄土真宗大谷派の寺院です。本堂の前にあった〈沿革〉によると「当時は慶長12年に江戸木挽町に土地を拝領し、行心和上を開基として創設し、月岬山神足寺と号した。その後、八丁堀に、西久保赤羽に、三田村(現・港区)にと建立以来三ヶ所を移転したが、三田村においては長く聞法の場として門信徒の教法につとめたが、明治43年、当寺16代憲英住職の時、現在の地に本堂、庫裡をそのまま移転した。昭和33年には本堂の改築がなされた。開基の行心和上は百年以上にわたる一向一揆の天正七年に、本願寺11世顕如上人、12世教如上人の二人を中心とする軍勢が織田信長軍と戦っている時、伊豆の武士で伊東氏として織田軍に加わっていた。その時、織田の陣地に教如上人の書いた手紙が矢に結ばれて射こまれた。ちょうどそこにいた伊東氏は手紙を読んで、信長の軍がいかに誤っていて、本願寺派の主張が正しいかを知らされた。伊東氏は教如上人の意見に感服し、信長の陣をそっと去り、本願寺の味方となり、一揆の後に大谷派の僧侶となり行心と改めた。」なのだそうです』
『金剛寺から細い道を進みます』

『どうやらこの道は正面の参道ではないみたいですね』

【山門】

【本堂】


【縁起】

『帰りはくねくねと坂道を降り、正面参道から帰りました』

(神足寺)
住所:東京都中野区上高田4-11-1
電話:03-3386-4528
2013年10月19日投稿