於竹大日如来井戸跡 @東京都中央区
2012年7月26日(木)
お昼休みを利用し、於竹大日如来井戸跡を見学してきました。
東京都港区の心光院を訪ねた時、お竹如来の縁起を知り、とても興味が湧きました。
お竹さんにゆかりがある場所として、東京では港区東麻布一丁目の心光院にある「お竹大日堂」、北区赤羽西六丁目の善徳寺にある「お竹のお墓」、そしてここ中央区日本橋本町三丁目にある「於竹大日如来井戸跡」があります。
心光院と善徳寺には以前行ったので、ここを見て、東京にある於竹さんゆかりの地めぐりが完結です(^^
山形県まで行かないと本当の完結にはなりませんがwww
お竹さんについてですが
寛永年間(1624~1643年)江戸大伝馬町の名主佐久間勘解由(かげゆ)家の下女お竹は庄内(山形県)出身で、愛しみの心が深く、朝夕の自分の食事を貧しい人に施し、自らは水盤の隅に網を置いて、洗い流しの飯が溜まったものを食料にしたといいます。この話を聞いた五代将軍綱吉の生母桂昌院は、いたく心を動かされ、金欄の布に包まれた立派な箱にお竹さんが当時使っていた流し板を納めて、増上寺の別院であった心光院に寄進し、その徳光を顕彰したそうです。
江戸へ奉公にでていた庄内出身の女中「於竹」は、羽黒山へ参詣する行者の不思議な夢のお告げにより、「生きた大日如来である」とされました。於竹は行者の訪問後、亡くなったが没後、奉公先の夫婦は於竹の等身大の大日如来を作り供養しました。寛容で慈悲深く、とても物を大切にする働き者の奉公人「於竹」の人柄、羽黒山行者の不思議な夢のお告げ、奉公先の夫婦の「於竹」へのやさしい心づかいなどの話が相まって、当時、「於竹大日如来」は、江戸庶民の間で一大ブームとなり、「於竹大日如来」を参詣する者が絶えなかったといいます。ブームとなった江戸の町では、芝居、小説、講釈、錦絵などに描かれたそうです。
お竹さんが愛用し、貧困者が市(べったら市)をなしたという井戸の跡に碑が建てられています。
【於竹大日如来井戸跡】



『小津和紙のビルの一角にあります。小津ビルを国道4号線、都道316号線(昭和通り)から正面に見て、左脇の道を20m程進むとあります』

所在地:東京都中央区日本橋本町3-6-2 小津本館ビル脇
2012年9月28日投稿
お昼休みを利用し、於竹大日如来井戸跡を見学してきました。
東京都港区の心光院を訪ねた時、お竹如来の縁起を知り、とても興味が湧きました。
お竹さんにゆかりがある場所として、東京では港区東麻布一丁目の心光院にある「お竹大日堂」、北区赤羽西六丁目の善徳寺にある「お竹のお墓」、そしてここ中央区日本橋本町三丁目にある「於竹大日如来井戸跡」があります。
心光院と善徳寺には以前行ったので、ここを見て、東京にある於竹さんゆかりの地めぐりが完結です(^^
山形県まで行かないと本当の完結にはなりませんがwww
お竹さんについてですが
寛永年間(1624~1643年)江戸大伝馬町の名主佐久間勘解由(かげゆ)家の下女お竹は庄内(山形県)出身で、愛しみの心が深く、朝夕の自分の食事を貧しい人に施し、自らは水盤の隅に網を置いて、洗い流しの飯が溜まったものを食料にしたといいます。この話を聞いた五代将軍綱吉の生母桂昌院は、いたく心を動かされ、金欄の布に包まれた立派な箱にお竹さんが当時使っていた流し板を納めて、増上寺の別院であった心光院に寄進し、その徳光を顕彰したそうです。
江戸へ奉公にでていた庄内出身の女中「於竹」は、羽黒山へ参詣する行者の不思議な夢のお告げにより、「生きた大日如来である」とされました。於竹は行者の訪問後、亡くなったが没後、奉公先の夫婦は於竹の等身大の大日如来を作り供養しました。寛容で慈悲深く、とても物を大切にする働き者の奉公人「於竹」の人柄、羽黒山行者の不思議な夢のお告げ、奉公先の夫婦の「於竹」へのやさしい心づかいなどの話が相まって、当時、「於竹大日如来」は、江戸庶民の間で一大ブームとなり、「於竹大日如来」を参詣する者が絶えなかったといいます。ブームとなった江戸の町では、芝居、小説、講釈、錦絵などに描かれたそうです。
お竹さんが愛用し、貧困者が市(べったら市)をなしたという井戸の跡に碑が建てられています。
【於竹大日如来井戸跡】



『小津和紙のビルの一角にあります。小津ビルを国道4号線、都道316号線(昭和通り)から正面に見て、左脇の道を20m程進むとあります』

所在地:東京都中央区日本橋本町3-6-2 小津本館ビル脇
2012年9月28日投稿