長光寺 @東京都新宿区
2012年5月7日(月)
昼休み時間に新宿に居たので休み時間を利用し、都道302号線(西武新宿駅~東新宿駅間)を散策してみることにしました。まず最初に訪れたのが長光寺です。
JR新宿駅と新大久保駅間のガードから都道302号線を東へ100m程行った左手にあります。
長光寺は正式には「玉寶山 長光寺」と号する曹洞宗の寺院です。
縁起はホームページによると
『曹洞宗長光寺は山号を玉寶山と称し、文禄三年(1594年)に甲州武田家の遺臣(法名 直心軒祖道円成居士)により、天正十年の織田信長との合戦によって滅亡した武田家の菩提を弔うために建立されました。本尊は釈迦如来、開山は得州全可大和尚とされていますが、実際の開山は二世の海翁寒刹大和尚です。寺の開山を自分の功績にせず、師匠に譲った勝蹟によります。以後、何度か災禍に遭い建物は消失しながらも四百年連綿として続き、平成13年近代建築にて復興され今日に至ります』
なのだそうです。
【長光寺】

【新宿しあわせ薬師如来】
ホームページによると
『江戸時代、現在の歌舞伎町に大名屋敷を構えた久世三四郎は幕府鉄砲百人組の頭を拝し、与力同心の屋敷を建てて百人町を開きました。ある夜、久世家に古くより伝わっていた弘法大師作の薬師如来が枕辺に顕れ、「ぜひ一宇を建てて前の長光寺の寺域に移してほしい。そうすれば我はその地に永くとどまりて衆生に幸福を授くべし。」と告げられました。この霊夢ののち、薬師堂が建てられ近郊の善男善女が参拝し祈願するようになりました。明治、大正時代には屋台もでて多くのお参りがありましたが、先の大戦でお堂は焼失。かろうじて疎開してあった尊像は、本堂建設に併せて薬師堂「新宿しあわせ薬師」を信者の喜捨で建立されました』
なのだそうです。

【薬師如来縁起】

【鉄砲組百人隊】
ホームページによると
『天文十二年、種子島においてわが国に鉄砲が伝来したことは有名です。以後、各地の戦いに使われるようになり、江戸に幕府を開いた徳川家康は江戸城の近くに駐屯させ、この将軍警護のための鉄砲隊を「百人組」といいました。その宿営地が百人町という名の由来になっています。鉄砲組百人隊の子孫は現在でも長光寺の檀信徒として、祖霊の地を守っています。また昭和三十六年(1961年)、江戸幕府鉄砲組百人隊保存会により、江戸時代に行われていた「鉄砲組百人隊出陣の儀」が復活し、以来、隔年9月に開催される皆中稲荷神社の例大祭にあわせて執り行われています。出陣の儀を終え皆中稲荷神社を出発した鉄砲組百人隊の行列は、法螺貝の音とともに百人町を練り歩き、数箇所で実際に火薬を使い火縄銃の試射を行います。すさまじい轟音が辺りに響き渡る迫力満点のこの行事は、現在新宿区無形民俗文化財に登録されています。長光寺に到着した行列は、鉄砲組百人隊の祖霊に黙祷を捧げた後、長光寺敷地内にて火縄銃の試射を行います』
なのだそうです。

【島崎藤村ゆかりの寺】
ホームページによると
『島崎藤村が小諸から再び東京に出てきて、西大久保に住んだのは明治38年5月1日からでした。長光寺檀家である坂本家の敷地内の借家に居をかまえて本格的な執筆活動に入るためのものでした。上京した藤村は武蔵野の面影の残る、檪木立ちの多いこの地域が気に入っていたようです。一家妻子4人と共に移ったときは、新築のためまだ壁土も乾いていなかったといいます。その借家は通りに向かって玄関があり4間からの平屋で、奥の6畳が藤村の書斎でした。34歳の藤村は日夜文学の鬼となって『破戒』のペンを執り続け、一家の生活の悲惨を省みる暇がありませんでした。大家の坂本家では、藤村の子供が病気がちで、生活も苦しい様子なので、漬物を分けてあげたり、その他いろいろと食べ物の世話をしたようです。間も無く藤村を悲運が見舞います。5月6日に三女縫を急性髄膜炎で、翌年4月7日に二女孝を急性消化不良で、6月12日に長女緑を結核性脳膜炎で相次いで失いました。その後、浅草に転居してからも妻の冬が脚気で死去。いずれも大家の坂本家の好意によって長光寺に葬られています』
なのだそうです。

住所:東京都新宿区百人町1-5-2
電話:03-3209-5360
ホームページ:http://www.chokoji.net/
2012年6月8日投稿
昼休み時間に新宿に居たので休み時間を利用し、都道302号線(西武新宿駅~東新宿駅間)を散策してみることにしました。まず最初に訪れたのが長光寺です。
JR新宿駅と新大久保駅間のガードから都道302号線を東へ100m程行った左手にあります。
長光寺は正式には「玉寶山 長光寺」と号する曹洞宗の寺院です。
縁起はホームページによると
『曹洞宗長光寺は山号を玉寶山と称し、文禄三年(1594年)に甲州武田家の遺臣(法名 直心軒祖道円成居士)により、天正十年の織田信長との合戦によって滅亡した武田家の菩提を弔うために建立されました。本尊は釈迦如来、開山は得州全可大和尚とされていますが、実際の開山は二世の海翁寒刹大和尚です。寺の開山を自分の功績にせず、師匠に譲った勝蹟によります。以後、何度か災禍に遭い建物は消失しながらも四百年連綿として続き、平成13年近代建築にて復興され今日に至ります』
なのだそうです。
【長光寺】

【新宿しあわせ薬師如来】
ホームページによると
『江戸時代、現在の歌舞伎町に大名屋敷を構えた久世三四郎は幕府鉄砲百人組の頭を拝し、与力同心の屋敷を建てて百人町を開きました。ある夜、久世家に古くより伝わっていた弘法大師作の薬師如来が枕辺に顕れ、「ぜひ一宇を建てて前の長光寺の寺域に移してほしい。そうすれば我はその地に永くとどまりて衆生に幸福を授くべし。」と告げられました。この霊夢ののち、薬師堂が建てられ近郊の善男善女が参拝し祈願するようになりました。明治、大正時代には屋台もでて多くのお参りがありましたが、先の大戦でお堂は焼失。かろうじて疎開してあった尊像は、本堂建設に併せて薬師堂「新宿しあわせ薬師」を信者の喜捨で建立されました』
なのだそうです。

【薬師如来縁起】

【鉄砲組百人隊】
ホームページによると
『天文十二年、種子島においてわが国に鉄砲が伝来したことは有名です。以後、各地の戦いに使われるようになり、江戸に幕府を開いた徳川家康は江戸城の近くに駐屯させ、この将軍警護のための鉄砲隊を「百人組」といいました。その宿営地が百人町という名の由来になっています。鉄砲組百人隊の子孫は現在でも長光寺の檀信徒として、祖霊の地を守っています。また昭和三十六年(1961年)、江戸幕府鉄砲組百人隊保存会により、江戸時代に行われていた「鉄砲組百人隊出陣の儀」が復活し、以来、隔年9月に開催される皆中稲荷神社の例大祭にあわせて執り行われています。出陣の儀を終え皆中稲荷神社を出発した鉄砲組百人隊の行列は、法螺貝の音とともに百人町を練り歩き、数箇所で実際に火薬を使い火縄銃の試射を行います。すさまじい轟音が辺りに響き渡る迫力満点のこの行事は、現在新宿区無形民俗文化財に登録されています。長光寺に到着した行列は、鉄砲組百人隊の祖霊に黙祷を捧げた後、長光寺敷地内にて火縄銃の試射を行います』
なのだそうです。

【島崎藤村ゆかりの寺】
ホームページによると
『島崎藤村が小諸から再び東京に出てきて、西大久保に住んだのは明治38年5月1日からでした。長光寺檀家である坂本家の敷地内の借家に居をかまえて本格的な執筆活動に入るためのものでした。上京した藤村は武蔵野の面影の残る、檪木立ちの多いこの地域が気に入っていたようです。一家妻子4人と共に移ったときは、新築のためまだ壁土も乾いていなかったといいます。その借家は通りに向かって玄関があり4間からの平屋で、奥の6畳が藤村の書斎でした。34歳の藤村は日夜文学の鬼となって『破戒』のペンを執り続け、一家の生活の悲惨を省みる暇がありませんでした。大家の坂本家では、藤村の子供が病気がちで、生活も苦しい様子なので、漬物を分けてあげたり、その他いろいろと食べ物の世話をしたようです。間も無く藤村を悲運が見舞います。5月6日に三女縫を急性髄膜炎で、翌年4月7日に二女孝を急性消化不良で、6月12日に長女緑を結核性脳膜炎で相次いで失いました。その後、浅草に転居してからも妻の冬が脚気で死去。いずれも大家の坂本家の好意によって長光寺に葬られています』
なのだそうです。

住所:東京都新宿区百人町1-5-2
電話:03-3209-5360
ホームページ:http://www.chokoji.net/
2012年6月8日投稿