泉福寺 @東京都板橋区
2019年5月25日(土)
松月院大堂/赤塚八幡神社の見学を終え、泉福寺にやって来ました。
泉福寺は正式には「崇福山 泉福寺(せんぷくじ)」と号する真言宗智山派の寺院です。
縁起書きによると
御本尊は不動明王。宗派は真言宗智山派で崇福山泉福寺と号す。
開山の時期は不明ですが、大堂にある暦応3年(1340年)4月に鋳造された梵鐘の銘文中に「泉福寺」の名があるので、鎌倉時代末には創建されていたと考えられます。江戸時代には赤塚地域の祈願寺として信仰を集め、以降現在に至るまで法灯が続いています。
明治9月6月29日には公立の下赤塚学校が本寺を借りて開校し、旧上赤塚村の清涼寺にあった石成学校と合併して明治24年10月に赤塚小学校が誕生するまでの約15年間、ここで授業が行われました。
本寺に伝わる十一面観音立像は、天和元年(1681年)7月に下赤塚村の名主春日伊兵衛が寄進したもので、平成3年度に板橋区の指定文化財となりました。また本寺所蔵の18点の板碑は、当地域の南北朝から室町時代にかけての歴史を解明するうえで重要な資料として、平成21年度に区の登録文化財となりました。
なお、日露戦争の戦没者を弔うために開設された豊島八十八ヶ所霊場の第23番札所となっています。
板橋区のホームページによると、泉福寺十一面観音立像は
十一面観音は頭上に小さな十一の仏面をいただき、六観音の一つに配されています。
泉福寺十一面観音立像は、木造で、寄木造、玉眼嵌入、漆箔で全身が金箔で覆われ、頭髪には彩色が加えられ、像高は53.1cmです。左手は屈して水廟を持ち、右手は拳を前方に向けて下にさしのべて蓮華座の上に立ち、面相、体躯、裳の表現のいずれも極めて正統的な作風を示しています。光背は舟形光背で、表面には十一面観音を示す梵字が十一配され、裏面には「天和元年辛酉造立者下赤塚村春日尹兵衛/七月十五日 法名泰翁浄安居士」と陰刻されています。
像、光背、蓮華座はいずれも制作当初のものであり、制作年代と発願者も明らかな貴重な仏像です。
なのだそうです。
【参道】

【縁起】

【弘法大師像】

【地蔵菩薩など】

【板碑】

【本堂】

【扁額】
『豊嶋八塔霊場第4番と書かれています。調べてみましたが詳細不明です』

【地図】
住所:東京都板橋区赤塚6-39-7
電話:03-3930-7603
2021年11月22日投稿
松月院大堂/赤塚八幡神社の見学を終え、泉福寺にやって来ました。
泉福寺は正式には「崇福山 泉福寺(せんぷくじ)」と号する真言宗智山派の寺院です。
縁起書きによると
御本尊は不動明王。宗派は真言宗智山派で崇福山泉福寺と号す。
開山の時期は不明ですが、大堂にある暦応3年(1340年)4月に鋳造された梵鐘の銘文中に「泉福寺」の名があるので、鎌倉時代末には創建されていたと考えられます。江戸時代には赤塚地域の祈願寺として信仰を集め、以降現在に至るまで法灯が続いています。
明治9月6月29日には公立の下赤塚学校が本寺を借りて開校し、旧上赤塚村の清涼寺にあった石成学校と合併して明治24年10月に赤塚小学校が誕生するまでの約15年間、ここで授業が行われました。
本寺に伝わる十一面観音立像は、天和元年(1681年)7月に下赤塚村の名主春日伊兵衛が寄進したもので、平成3年度に板橋区の指定文化財となりました。また本寺所蔵の18点の板碑は、当地域の南北朝から室町時代にかけての歴史を解明するうえで重要な資料として、平成21年度に区の登録文化財となりました。
なお、日露戦争の戦没者を弔うために開設された豊島八十八ヶ所霊場の第23番札所となっています。
板橋区のホームページによると、泉福寺十一面観音立像は
十一面観音は頭上に小さな十一の仏面をいただき、六観音の一つに配されています。
泉福寺十一面観音立像は、木造で、寄木造、玉眼嵌入、漆箔で全身が金箔で覆われ、頭髪には彩色が加えられ、像高は53.1cmです。左手は屈して水廟を持ち、右手は拳を前方に向けて下にさしのべて蓮華座の上に立ち、面相、体躯、裳の表現のいずれも極めて正統的な作風を示しています。光背は舟形光背で、表面には十一面観音を示す梵字が十一配され、裏面には「天和元年辛酉造立者下赤塚村春日尹兵衛/七月十五日 法名泰翁浄安居士」と陰刻されています。
像、光背、蓮華座はいずれも制作当初のものであり、制作年代と発願者も明らかな貴重な仏像です。
なのだそうです。
【参道】

【縁起】

【弘法大師像】

【地蔵菩薩など】

【板碑】

【本堂】

【扁額】
『豊嶋八塔霊場第4番と書かれています。調べてみましたが詳細不明です』

【地図】
住所:東京都板橋区赤塚6-39-7
電話:03-3930-7603
2021年11月22日投稿