松月院大堂/赤塚八幡神社 @東京都板橋区
2019年5月25日(土)
増福寺の見学を終え、松月院大堂(しょうげついんたいどう)、赤塚八幡神社にやって来ました。
赤塚八幡神社は松月院大堂と同じ境内にあります。
松月院大堂の縁起は、説明板によると
この地域は江戸時代は江戸幕府の直轄地(幕領)であり、豊島郡峡田領下赤塚村に属していた。大堂とはここでは阿弥陀堂のことで、「新編武蔵風土記稿巻之十四」によると、南北朝時代の建武・延元の頃(1334~40年)は、七堂伽藍をそなえた大寺院であったので、村人は大堂と称していたという。永禄4年(1561年)3月長尾景虎(上杉謙信)が上杉憲政を奉じて北條氏康を小田原に攻めた際に、堂宇悉く焼き討ちにあって焼失したといわれている。
文化11年(1814年)2月に大堂を訪れた小石川本法寺の老僧十方庵敬順は、「往還の西角にして小高き処にあり、則ち石段を登る拾四五段、本尊は座像の弥陀、御長弐尺四五寸ばかりと覚ゆ」と紀行文「遊歴雑記」に書いている。
東側の八幡社は、江戸時代から下赤塚村の鎮守社で、明治初期の神仏分離令によって神社の参道から右は八幡社、左は大堂と分けられている。
南北朝時代の暦応3年(1340年)鋳造の梵鐘と鎌倉時代末期の制作といわれる本尊阿弥陀如来坐像は共に有名で、江戸市中からの参拝客が絶えなかったといわれている。
赤塚八幡神社の由緒は、説明板によると
八幡神社は、下赤塚村の鎮守の一つで、御祭神は品陀別命です。ご神体として木像の騎上八幡が安置されていたと伝えられています。
創建年代は不詳ですが、暦応3年(1340年)に鋳造された大堂の銅鐘から、当社もこの頃には既に創建されていたものと思われます。また、荒川の氾濫を逃れるため、台地下の低地から遷座したとの伝承も伝わります。
当社が鎮座する地は、古墳の上であるともいわれ、江戸時代の地誌「新編武蔵風土記稿」によると、「永禄兵火の時、本尊の阿弥陀火中より出現して止る処と云」と、永禄4年(1561年)、長尾景虎(上杉謙信)の小田原攻めの戦火に巻き込まれた折に、大堂の本尊である阿弥陀如来が火中から出現し座した場ともされています。
特殊神事として、毎年3月に赤塚諏訪神社獅子舞(昭和58年度板橋区指定無形民俗文化財)が行われています。獅子舞は、かつては辻々を舞が歩いていましたが、現在では、赤塚諏訪神社で舞を奉納した後、八幡神社に奉納しています。
なのだそうです。
松月院大堂は東京都指定旧跡、梵鐘は国指定重要美術品、大堂阿弥陀如来坐像は板橋区登録有形文化財になっています。
『左の階段が松月院大堂の参道、右の階段が赤塚八幡神社の参道です』

【松月院大堂参道】

【庚申塔・地蔵菩薩】
『元塚地蔵尊から移設された庚申塔がどれかは分かりませんでした』


【寺号標】

【松月院大堂説明板】


【鐘楼】
『梵鐘は国の重要美術品に指定されています。他の方のブログを読むと本物は区立資料館にあるみたいです』

【松月院大堂】
『右奥に見える建物は赤塚八幡神社です』


【赤塚八幡神社鳥居】

【赤塚八幡神社説明板】

【赤塚八幡神社参道】


【赤塚八幡神社】

【扁額】

【稲荷神社】
『赤塚八幡神社の左奥にあります』

【地図】
住所:東京都板橋区赤塚6-40-4
2021年11月21日投稿
増福寺の見学を終え、松月院大堂(しょうげついんたいどう)、赤塚八幡神社にやって来ました。
赤塚八幡神社は松月院大堂と同じ境内にあります。
松月院大堂の縁起は、説明板によると
この地域は江戸時代は江戸幕府の直轄地(幕領)であり、豊島郡峡田領下赤塚村に属していた。大堂とはここでは阿弥陀堂のことで、「新編武蔵風土記稿巻之十四」によると、南北朝時代の建武・延元の頃(1334~40年)は、七堂伽藍をそなえた大寺院であったので、村人は大堂と称していたという。永禄4年(1561年)3月長尾景虎(上杉謙信)が上杉憲政を奉じて北條氏康を小田原に攻めた際に、堂宇悉く焼き討ちにあって焼失したといわれている。
文化11年(1814年)2月に大堂を訪れた小石川本法寺の老僧十方庵敬順は、「往還の西角にして小高き処にあり、則ち石段を登る拾四五段、本尊は座像の弥陀、御長弐尺四五寸ばかりと覚ゆ」と紀行文「遊歴雑記」に書いている。
東側の八幡社は、江戸時代から下赤塚村の鎮守社で、明治初期の神仏分離令によって神社の参道から右は八幡社、左は大堂と分けられている。
南北朝時代の暦応3年(1340年)鋳造の梵鐘と鎌倉時代末期の制作といわれる本尊阿弥陀如来坐像は共に有名で、江戸市中からの参拝客が絶えなかったといわれている。
赤塚八幡神社の由緒は、説明板によると
八幡神社は、下赤塚村の鎮守の一つで、御祭神は品陀別命です。ご神体として木像の騎上八幡が安置されていたと伝えられています。
創建年代は不詳ですが、暦応3年(1340年)に鋳造された大堂の銅鐘から、当社もこの頃には既に創建されていたものと思われます。また、荒川の氾濫を逃れるため、台地下の低地から遷座したとの伝承も伝わります。
当社が鎮座する地は、古墳の上であるともいわれ、江戸時代の地誌「新編武蔵風土記稿」によると、「永禄兵火の時、本尊の阿弥陀火中より出現して止る処と云」と、永禄4年(1561年)、長尾景虎(上杉謙信)の小田原攻めの戦火に巻き込まれた折に、大堂の本尊である阿弥陀如来が火中から出現し座した場ともされています。
特殊神事として、毎年3月に赤塚諏訪神社獅子舞(昭和58年度板橋区指定無形民俗文化財)が行われています。獅子舞は、かつては辻々を舞が歩いていましたが、現在では、赤塚諏訪神社で舞を奉納した後、八幡神社に奉納しています。
なのだそうです。
松月院大堂は東京都指定旧跡、梵鐘は国指定重要美術品、大堂阿弥陀如来坐像は板橋区登録有形文化財になっています。
『左の階段が松月院大堂の参道、右の階段が赤塚八幡神社の参道です』

【松月院大堂参道】

【庚申塔・地蔵菩薩】
『元塚地蔵尊から移設された庚申塔がどれかは分かりませんでした』


【寺号標】

【松月院大堂説明板】


【鐘楼】
『梵鐘は国の重要美術品に指定されています。他の方のブログを読むと本物は区立資料館にあるみたいです』

【松月院大堂】
『右奥に見える建物は赤塚八幡神社です』


【赤塚八幡神社鳥居】

【赤塚八幡神社説明板】

【赤塚八幡神社参道】


【赤塚八幡神社】

【扁額】

【稲荷神社】
『赤塚八幡神社の左奥にあります』

【地図】
住所:東京都板橋区赤塚6-40-4
2021年11月21日投稿