浄念寺 @埼玉県桶川市
2018年12月29日(土)
木戸跡(下)/武村旅館の見学を終え、浄念寺にやって来ました。
浄念寺は正式には「清水山 報恩院 浄念寺(せいすいざん ほうおんいん じょうねんじ)」と号する浄土宗の寺院です。
当寺の縁起は、説明板によると
室町時代後期の天文15年(1546年)下総国小金(現在の千葉県松戸市)東漸寺の團誉桂全善壽上人(だんよけいぜんぜんじゅしょうにん)が浄念寺を開創いたしました。江戸時代後期にまとめられた『新編武蔵国風土記』に「往古の開基を朗海と云、貞治7年正月朔日寂せり則境内に其の人の古碑あり、因りて思ふに朗海の開基せしはわずかの庵室なりしを後、團誉桂全善壽上人一寺を取建しによりこれを開山と云ふなるべし」と記されているように、室町時代初期(1360年頃)に朗海上人が桶川のこの地に建てた修行のための庵をもとに、戦国時代に團誉桂全善壽上人が寺院として整えたのが浄念寺に始まりであります。
浄念寺は開創された頃より、桶川宿と深い関係があったと考えられます。江戸時代初頭には、桶川宿を治めた西尾隠岐守吉次(にしおおきのかみよしつぐ)によって、地蔵菩薩像(本堂内に現存)・薬師如来像(薬師如来が納められていた石塔のみ現存)が奉納されたことからも、このことが伺えます。
阿弥陀さまに対する信仰が盛んであっただけでなく「足立秩父観音霊場」の札所として、観音さまへの信仰も篤いものでありました。また明治以降は、桶川不動尊の御所としての信仰も集めております。また、昔の人たちの信仰の様子は、現在でも境内地に残っている様々な石塔、仏像から伺い知ることができます。
なのだそうです。
【山門(仁王門)】

【扁額】

【山門(仁王門)・梵鐘・仁王像説明板】
『浄念寺のシンボルというべきこの朱塗りの仁王門は、『新編武蔵風土記稿』に「仁王門ハ楼門ナリ楼下ニ仁王ヲ安シ、上ニ鐘ヲ懸ク、元禄14年ノ銘文アリ」と記されてあるように、元禄14(1701)年に再建されたものであります。この仁王門の上には梵鐘が懸かっています。浄念寺のかつての梵鐘は寛保元(1741)年に鋳造されたもので、浄念寺のご詠歌に「浄念寺 鐘の響きや法の音 子安の誓い深き桶川」と詠われているように、その美しい音色は、人々に時を知らせるために桶川宿の隅々にまで鳴り響いたといわれています。残念ながら、この梵鐘は第二次対戦の際、求めに応じて供出され現存しておりません。現在、仁王門に懸っている梵鐘は、昭和四十年に鋳造されたものであります。仁王門の楼下にいらっしゃるのが、二体の仁王像であります。明和5(1768)年に開眼されました。口を開けているほうが阿形像、口を閉じているほうが吽形像といい外から侵入しようとする法敵から仏法を守護しております』

『仁王門をくぐると正面に本堂が見えます』

【本堂】

【縁起】

『一番左が西尾隠岐守吉次ゆかりの供養塔、左から4番目が徳本明号碑です』

【西尾隠岐守吉次ゆかりの供養塔・徳本明号碑説明板】
『徳本明号碑:徳本上人(1758~1818)は、江戸時代中期に諸国を遊行して念仏を広めた浄土宗の僧侶であります。大声で念仏を称える「徳本念仏」は江戸で爆発的に流行し、彼は信者の求めに応じて独特な書体の名号を書いて与えました。その名号を石に刻んだ名号碑が各地で主に女性が構成していた念仏講などにより造立されました。浄念寺の徳本名号碑は、文政元(1818)年に府川甚右衛門の妻ら47人の寄進により造立されたものです。
西尾隠岐守吉次ゆかりの供養塔:浄念寺には、江戸時代初期に桶川を治めた西尾隠岐守吉次の二つの守り本尊が寄進されました。その一つが地蔵菩薩像(本堂内に現存)であり、もう一つが薬師如来像であります。この薬師如来像は、度重なる災禍のためか現存しておりませんが、薬師如来が納められていたと考えられる供養塔が残っております。』

【不動堂・太子堂】

【不動堂・太子堂説明板】
『太子堂(聖徳太子):聖徳太子は日本に仏教が伝来したころ、仏教を深く信じ篤く保護をしたため「日本仏教の祖」といわれ、篤く信仰されています。
不動堂(不動明王):すべての魔や煩悩を折伏し、衆生を救済するのが不動明王です。現在浄念寺におまつりしてある不動尊は、もとは南蔵院でまつられていましたが、廃仏毀釈で南蔵院が廃寺となるに伴い、明治2年に浄念寺へと移座いたしました。この不動尊は元禄(1688~1704年)の頃、桶川宿の水谷某の畑の中から掘り出されたと言われており、霊験あらたかゆえ多くの参拝を受けてまいりました。毎月28日は「不動尊縁日」で、多くの人がお参りに訪れます。』

【板石塔婆】

【板石塔婆説明板】

【絵師 狩野法眼伊白の碑】

【絵師 狩野法眼伊白の碑説明板】

【地図】
住所:埼玉県桶川市南1-6-11
電話:048-771-3199
2021年5月27日投稿
木戸跡(下)/武村旅館の見学を終え、浄念寺にやって来ました。
浄念寺は正式には「清水山 報恩院 浄念寺(せいすいざん ほうおんいん じょうねんじ)」と号する浄土宗の寺院です。
当寺の縁起は、説明板によると
室町時代後期の天文15年(1546年)下総国小金(現在の千葉県松戸市)東漸寺の團誉桂全善壽上人(だんよけいぜんぜんじゅしょうにん)が浄念寺を開創いたしました。江戸時代後期にまとめられた『新編武蔵国風土記』に「往古の開基を朗海と云、貞治7年正月朔日寂せり則境内に其の人の古碑あり、因りて思ふに朗海の開基せしはわずかの庵室なりしを後、團誉桂全善壽上人一寺を取建しによりこれを開山と云ふなるべし」と記されているように、室町時代初期(1360年頃)に朗海上人が桶川のこの地に建てた修行のための庵をもとに、戦国時代に團誉桂全善壽上人が寺院として整えたのが浄念寺に始まりであります。
浄念寺は開創された頃より、桶川宿と深い関係があったと考えられます。江戸時代初頭には、桶川宿を治めた西尾隠岐守吉次(にしおおきのかみよしつぐ)によって、地蔵菩薩像(本堂内に現存)・薬師如来像(薬師如来が納められていた石塔のみ現存)が奉納されたことからも、このことが伺えます。
阿弥陀さまに対する信仰が盛んであっただけでなく「足立秩父観音霊場」の札所として、観音さまへの信仰も篤いものでありました。また明治以降は、桶川不動尊の御所としての信仰も集めております。また、昔の人たちの信仰の様子は、現在でも境内地に残っている様々な石塔、仏像から伺い知ることができます。
なのだそうです。
【山門(仁王門)】

【扁額】

【山門(仁王門)・梵鐘・仁王像説明板】
『浄念寺のシンボルというべきこの朱塗りの仁王門は、『新編武蔵風土記稿』に「仁王門ハ楼門ナリ楼下ニ仁王ヲ安シ、上ニ鐘ヲ懸ク、元禄14年ノ銘文アリ」と記されてあるように、元禄14(1701)年に再建されたものであります。この仁王門の上には梵鐘が懸かっています。浄念寺のかつての梵鐘は寛保元(1741)年に鋳造されたもので、浄念寺のご詠歌に「浄念寺 鐘の響きや法の音 子安の誓い深き桶川」と詠われているように、その美しい音色は、人々に時を知らせるために桶川宿の隅々にまで鳴り響いたといわれています。残念ながら、この梵鐘は第二次対戦の際、求めに応じて供出され現存しておりません。現在、仁王門に懸っている梵鐘は、昭和四十年に鋳造されたものであります。仁王門の楼下にいらっしゃるのが、二体の仁王像であります。明和5(1768)年に開眼されました。口を開けているほうが阿形像、口を閉じているほうが吽形像といい外から侵入しようとする法敵から仏法を守護しております』

『仁王門をくぐると正面に本堂が見えます』

【本堂】

【縁起】

『一番左が西尾隠岐守吉次ゆかりの供養塔、左から4番目が徳本明号碑です』

【西尾隠岐守吉次ゆかりの供養塔・徳本明号碑説明板】
『徳本明号碑:徳本上人(1758~1818)は、江戸時代中期に諸国を遊行して念仏を広めた浄土宗の僧侶であります。大声で念仏を称える「徳本念仏」は江戸で爆発的に流行し、彼は信者の求めに応じて独特な書体の名号を書いて与えました。その名号を石に刻んだ名号碑が各地で主に女性が構成していた念仏講などにより造立されました。浄念寺の徳本名号碑は、文政元(1818)年に府川甚右衛門の妻ら47人の寄進により造立されたものです。
西尾隠岐守吉次ゆかりの供養塔:浄念寺には、江戸時代初期に桶川を治めた西尾隠岐守吉次の二つの守り本尊が寄進されました。その一つが地蔵菩薩像(本堂内に現存)であり、もう一つが薬師如来像であります。この薬師如来像は、度重なる災禍のためか現存しておりませんが、薬師如来が納められていたと考えられる供養塔が残っております。』

【不動堂・太子堂】

【不動堂・太子堂説明板】
『太子堂(聖徳太子):聖徳太子は日本に仏教が伝来したころ、仏教を深く信じ篤く保護をしたため「日本仏教の祖」といわれ、篤く信仰されています。
不動堂(不動明王):すべての魔や煩悩を折伏し、衆生を救済するのが不動明王です。現在浄念寺におまつりしてある不動尊は、もとは南蔵院でまつられていましたが、廃仏毀釈で南蔵院が廃寺となるに伴い、明治2年に浄念寺へと移座いたしました。この不動尊は元禄(1688~1704年)の頃、桶川宿の水谷某の畑の中から掘り出されたと言われており、霊験あらたかゆえ多くの参拝を受けてまいりました。毎月28日は「不動尊縁日」で、多くの人がお参りに訪れます。』

【板石塔婆】

【板石塔婆説明板】

【絵師 狩野法眼伊白の碑】

【絵師 狩野法眼伊白の碑説明板】

【地図】
住所:埼玉県桶川市南1-6-11
電話:048-771-3199
2021年5月27日投稿