品川神社 @東京都品川区
2011年10月4日(火)
品川神社に行ってきました。
京浜急行の新馬場駅の近くにあります。
京浜急行に乗っていると鳥居の左上方にこんもりとした山があるなぁと漠然と眺めていたのですが、じゃらん観光ガイドのアプリで、それが富士塚であることを知り、新馬場駅近くに用事があったので帰りに寄ってみることにしました。
由緒を読むと
御祭神は天比理乃咩命(あめのひりのめのみこと)、宇賀之売命(うかのめのみこと)、素盞嗚尊(すさのおのみこと)で、今からおよそ八百年程前の平安時代末期の文治三年(1187年)に、源頼朝公が安房国の洲崎明神(現・千葉県館山市鎮座 洲崎神社)の天比理乃咩命を当地にお迎えして海上交通安全と祈願成就を祈られたのを創始とします。やがて、鎌倉時代末期の元応元年(1319年)に二階堂道蘊公(にかいどうどううんこう)が「宇賀之売命(お稲荷様)」を、さらに室町時代中期の文明十年(1478年)に太田道灌公が「素盞嗚尊(天王様)」をそれぞれお祀りしました。
慶長五年(1600年)、徳川家康公が関ヶ原の戦いへ出陣の際に当社へ参拝し戦勝を祈願され、その後、祈願成就の御札として仮面(天下一嘗(てんかひとなめ)の面)・神輿(葵神輿)などを奉納されました。また、寛永十四年(1637年)三代将軍徳川家光公により東海寺が建立され当社がその鎮守と定められ、「御修覆所(神社の建物の再建・修復などは全て幕府が賄う)」となり、元禄七年(1694年)・嘉永三年(1850年)の二度の社殿の焼失の際には時の将軍の命により再建が行なわれる等、徳川将軍家の庇護を受けました。
時代は明治に移り、同元年(1868年)十一月には明治天皇様が、新都・東京の安寧と国家の繁栄を御祈願されるために、当社を含んだ都内の十の神社を「准勅祭神社(じゅんちょくさいじんじゃ)」と定められ、御勅使が御参拝になられ御祈願されました。大東亜戦争の折は、当社は幸いにして戦火を免れましたが、社殿の老朽化が進み、昭和三十九年(1964年)氏子各位の御協力により現在の社殿が再建されました。
なのだそうです。
とても由緒ある神社ですし、富士塚や境外になりますが本殿の裏を抜けていくと板垣退助の墓があったりと、見どころを多い神社です^^
当社は、東海七福神の大黒天になっています。
また、東京十社(とうきょうじっしゃ)、新東京八名勝の一つになっています。
明治元年、明治天皇が准勅祭(じゅんちょくさい)神社として幣帛(へいはく)を捧げられ、東京の鎮護と万民の平安を祈願されたお社を東京十社と言います。
『左上方、岩の塊のようなものが見えます。これが富士塚で結構目立ちます』


【社号標】

【鳥居】

【富士塚】品川区指定有形民俗文化財
『石段を登って行くと、途中に富士塚の入口が現れます』

『登山道一合目です』

『二合目』

『六・七・八合目です』


『七合目。石碑が立っています』

『九号目。下には白いお社が見えますね』

『十合目。富士塚の頂上です。高層ビルと京浜急行が見えます^^』

『反対側にも富士登山入口がありました』


【富士塚説明板】品川区指定有形民俗文化財

【富士塚山開き説明板】品川区指定無形民俗文化財

【浅間神社鳥居】
『富士塚の側に浅間神社があります』

【石造灯籠】品川区指定有形文化財
『写真両脇の石灯籠は慶安元年(1648年)に造立されました』

【浅間神社】

『浅間神社の左手、富士塚の麓に「ぶじかえる」があります』

『石段を登りきった右手に石碑がたくさん並んでいます』


『石段を登り切り正面が拝殿になります』

【狛犬】
『珍しい陶製の狛犬なので、金網で保護されています。しかしながら、右の狛犬の鼻がもげてしまっていました』




【石造鳥居並水盤】品川区指定有形文化財

【神楽殿】
『元旦(1/1)、春祭(4/15後の日曜)、例大祭(6/7に近い金曜日)、新嘗祭(11/23)に都指定無形文化財の太太神楽が奉納されるそうです』

【祖霊社】

【宝物殿】

【阿那稲荷神社】



【拝殿】



『拝殿の右側を抜け、本殿の裏を抜けると板垣退助のお墓があります。板垣退助墓所のページに続く・・・』

住所:東京都品川区北品川3-7-15
電話:03-3474-5575
2011年10月28日投稿
品川神社に行ってきました。
京浜急行の新馬場駅の近くにあります。
京浜急行に乗っていると鳥居の左上方にこんもりとした山があるなぁと漠然と眺めていたのですが、じゃらん観光ガイドのアプリで、それが富士塚であることを知り、新馬場駅近くに用事があったので帰りに寄ってみることにしました。
由緒を読むと
御祭神は天比理乃咩命(あめのひりのめのみこと)、宇賀之売命(うかのめのみこと)、素盞嗚尊(すさのおのみこと)で、今からおよそ八百年程前の平安時代末期の文治三年(1187年)に、源頼朝公が安房国の洲崎明神(現・千葉県館山市鎮座 洲崎神社)の天比理乃咩命を当地にお迎えして海上交通安全と祈願成就を祈られたのを創始とします。やがて、鎌倉時代末期の元応元年(1319年)に二階堂道蘊公(にかいどうどううんこう)が「宇賀之売命(お稲荷様)」を、さらに室町時代中期の文明十年(1478年)に太田道灌公が「素盞嗚尊(天王様)」をそれぞれお祀りしました。
慶長五年(1600年)、徳川家康公が関ヶ原の戦いへ出陣の際に当社へ参拝し戦勝を祈願され、その後、祈願成就の御札として仮面(天下一嘗(てんかひとなめ)の面)・神輿(葵神輿)などを奉納されました。また、寛永十四年(1637年)三代将軍徳川家光公により東海寺が建立され当社がその鎮守と定められ、「御修覆所(神社の建物の再建・修復などは全て幕府が賄う)」となり、元禄七年(1694年)・嘉永三年(1850年)の二度の社殿の焼失の際には時の将軍の命により再建が行なわれる等、徳川将軍家の庇護を受けました。
時代は明治に移り、同元年(1868年)十一月には明治天皇様が、新都・東京の安寧と国家の繁栄を御祈願されるために、当社を含んだ都内の十の神社を「准勅祭神社(じゅんちょくさいじんじゃ)」と定められ、御勅使が御参拝になられ御祈願されました。大東亜戦争の折は、当社は幸いにして戦火を免れましたが、社殿の老朽化が進み、昭和三十九年(1964年)氏子各位の御協力により現在の社殿が再建されました。
なのだそうです。
とても由緒ある神社ですし、富士塚や境外になりますが本殿の裏を抜けていくと板垣退助の墓があったりと、見どころを多い神社です^^
当社は、東海七福神の大黒天になっています。
また、東京十社(とうきょうじっしゃ)、新東京八名勝の一つになっています。
明治元年、明治天皇が准勅祭(じゅんちょくさい)神社として幣帛(へいはく)を捧げられ、東京の鎮護と万民の平安を祈願されたお社を東京十社と言います。
『左上方、岩の塊のようなものが見えます。これが富士塚で結構目立ちます』


【社号標】

【鳥居】

【富士塚】品川区指定有形民俗文化財
『石段を登って行くと、途中に富士塚の入口が現れます』

『登山道一合目です』

『二合目』

『六・七・八合目です』


『七合目。石碑が立っています』

『九号目。下には白いお社が見えますね』

『十合目。富士塚の頂上です。高層ビルと京浜急行が見えます^^』

『反対側にも富士登山入口がありました』


【富士塚説明板】品川区指定有形民俗文化財

【富士塚山開き説明板】品川区指定無形民俗文化財

【浅間神社鳥居】
『富士塚の側に浅間神社があります』

【石造灯籠】品川区指定有形文化財
『写真両脇の石灯籠は慶安元年(1648年)に造立されました』

【浅間神社】

『浅間神社の左手、富士塚の麓に「ぶじかえる」があります』

『石段を登りきった右手に石碑がたくさん並んでいます』


『石段を登り切り正面が拝殿になります』

【狛犬】
『珍しい陶製の狛犬なので、金網で保護されています。しかしながら、右の狛犬の鼻がもげてしまっていました』




【石造鳥居並水盤】品川区指定有形文化財

【神楽殿】
『元旦(1/1)、春祭(4/15後の日曜)、例大祭(6/7に近い金曜日)、新嘗祭(11/23)に都指定無形文化財の太太神楽が奉納されるそうです』

【祖霊社】

【宝物殿】

【阿那稲荷神社】



【拝殿】



『拝殿の右側を抜け、本殿の裏を抜けると板垣退助のお墓があります。板垣退助墓所のページに続く・・・』

住所:東京都品川区北品川3-7-15
電話:03-3474-5575
2011年10月28日投稿