川越大師 喜多院 @埼玉県川越市
2011年9月24日(土)
今日は喜多院に行ってきました。
喜多院は正式には「星野山 無量寿寺 喜多院」と称し、天台宗の寺院で川越大師の愛称で親しまれています。
当寺の歴史はホームページによると
平安時代、淳和天皇の勅により天長七年(830年)慈覚大師円仁により創建された勅願所であって、本尊阿弥陀如来をはじめ、不動明王、毘沙門天などを祀り、無量寿寺と名付けられたのが始まりで、その後元久二年(1205年)兵火で炎上の後、永仁四年(1296年)伏見天皇が尊海僧正に再興させた時、慈恵大師(元三大師)をお祀りし、官田50石を寄せられ関東天台の中心になりました。正安三年(1301年)後伏見天皇が東国580ヶ寺の本山たる勅書を下し、後奈良天皇は「星野山-現在の山号」の勅額を下しました。更に天文六年(1537年)北条氏綱、上杉朝定の兵火で炎上しました。慶長四年(1599年)天海僧正(慈眼大師)は第27世の法灯を継ぎますが、慶長十六年(1611年)十一月徳川家康公が川越を訪れた時親しく接見しています。そして天海の意見により寺領4万8000坪及び500石を下し、酒井備後守忠利に工事を命じ、仏蔵院北院を喜多院と改め、4代徳川家綱公の時東照宮に200石を下すなど寺勢をふるいました。寛永十五年(1638年)一月の川越大火で現在の山門(寛永九年建立)を除き堂宇はすべて焼失しました。そこで3代将軍徳川家光公は堀田加賀守正盛に命じてすぐに復興にかかり、江戸城紅葉山(皇居)の別殿を移築して、客殿、書院等にあてました。家光誕生の間、春日局化粧の間があるのはそのためです。その他慈恵堂、多宝塔、慈眼堂、鐘楼門、東照宮、日枝神社などの現存の建物を数年の間に相次いで再建されました。
ということです。
家光誕生の間や春日局化粧の間が何で川越にあるのかとても不思議だったのですが、そういう理由だったんですね。日本三大東照宮の1つと言われる仙波東照宮(別途アップ)、日枝神社(別途アップ)も含めると広い境内で、日本三大羅漢の1つと言われる五百羅漢もあり、見どころ満載の寺院です^^
ところで、日本三大○○って異論がよくあるので調べてみたところ
日本三大東照宮の1つ目は誰でも知っている「日光東照宮(栃木県)」2つ目は「久能山東照宮(静岡県)」でこれは異論はないようですが、3つ目は「仙波東照宮(埼玉県)」「鳳来山東照宮(愛知県)」「滝山東照宮(愛知県)」などが挙げられていて、やはり議論が分かれるところのようですw
日本三大五百羅漢は一般的には「徳蔵寺(栃木県)」「建長寺(神奈川県)」「羅漢寺(大分県)」と言われているようです。喜多院は入ってない???でも喜多院のホームページには日本三大羅漢の1つと謳っています。そして多くのブログでも喜多院の五百羅漢は日本三大羅漢の1つですと紹介されています。えっ!まさか「日本三大五百羅漢」と「日本三大羅漢」って違うものなんですかね?まあもうどうでもいいですw 日本三大であろうがなかろうが、見て自分が良かったと思えればいいわけなので^^
喜多院は小江戸川越七福神第三番の大黒天です。
【喜多院正面入口】

【山門・番所】国指定重要文化財・県指定有形要文化財
『山門は四脚門、切妻造で本瓦葺。元は後奈良天皇の「星野山」の勅額が掲げれていたそうです。棟札も残っていて、天海僧正が寛永九年(1632年)に建立したもので同十五年の大火を免れた喜多院では最古の建造物です。番所は山門の右手に接続して立っていて間口十尺(3.03m)、奥行二間半(4.55m)、起(むくり)屋根、瓦葺の小建築で徳川中期以降の手法によるもので、県内に残るただ一棟の遺構だそうです』

『山門・番所の右手手前に白山権現社と天海僧正の像がありました』

【白山権現社】


【天海僧正像】
『顔が北野武さんに似ているような気がするのは僕だけでしょうか?』

『山門をくぐると正面に本堂(慈恵堂)が見えます』

『実際には僕は喜多院に隣接する有料駐車場側から入りました』

『駐車場側から入ると、写真では見えませんが右に多宝塔、右奥に本堂が見えます』

『喜多院は小江戸川越七福神第三番の大黒天です』

【本堂(慈恵堂)】県指定有形文化財
『慈恵堂は比叡山延暦寺第18代座主の慈恵大師良源(元三大師)を祀る堂です。大師堂として親しまれ、潮音殿とも呼ぶそうです』



『本堂からの境内の眺め』


【多宝塔】県指定有形文化財
『多宝塔は元々は山門と日枝神社の間にあった古墳の上に、寛永十六年(1639年)に建立されました。明治四十五年道路新設のため、慈恵堂脇に移築されましたが、昭和四十七年から復元のため解体が行われ、昭和五十年に現在地に完成したそうです。総高13m、方三間の多宝塔で本瓦葺、下層は方形、上層は円形、その上に宝形造の屋根がのっています』


【大黒天】
『本堂の右手にあります』

【客殿・書院・庫裡】国指定重要文化財
『拝観料は大人400円、小・中学生200円です。江戸城紅葉山(皇居)の別殿を移築した客殿(徳川家光誕生の間)書院(春日局化粧の間)庫裡(現在、寺務所)で構成されています。建物内は写真撮影禁止ですので、写真は撮っていませんので写真をご覧になりたい方はホームページでご確認ください。客殿は12畳半2室、17畳半2室、10畳2室があり、12畳半の1室が上段の間で床と違う棚があり、襖と壁面には墨絵の山水画があります。書院は8畳2室、12畳2室があります。これらの部屋は、この建物が江戸城にあった頃、徳川家光の乳母である春日局が使用していた部屋です』

【天海僧正お手植の槇】



『庫裡と慈恵堂を結ぶ渡り廊下』

【しだれ桜 家光公お手植桜(二代目)】


【遠州流庭園】

【客殿】

【庫裡】

『庫裡と慈恵堂を結ぶ渡り廊下』

『渡り廊下からの眺め。左手奥に多宝塔、右手に見えるのが慈恵堂です』

【五百羅漢】
『山門を入り右手にあります。川越北田島の志誠(しじょう)の発願により、天明二年(1782年)から文政八年(1825年)の約50年間にわたり建立されたもので、538体が鎮座しているそうです。ちなみに羅漢とは、煩悩をすべて断滅して最高の境地に達した人、狭義には小乗の悟りを得た最高の聖者のことだそうです』






『ヒソヒソと何を話しているんでしょうね?』

『蛇がいますよ』

『お二人とも何か悩んでいるようですね』

『こちらのお二人はお酒を酌み交わし楽しそうですね^^』

『とても良い笑顔ですね^^』

『マッサージ気持ちよさそうですね。左の方は早く僕の番にしてくれよって感じの表情でしょうかw』

【太子堂】

【鐘楼門】国指定重要文化財
『2階建ての階上に梵鐘が吊るされています。当時鐘楼門は喜多院境内のほぼ中央にあり、慈眼堂へ向う参道の門と位置づけられます。建立年代ははっきりとしていませんが、銅鐘に元禄十五年(1702年)の銘があり、その頃の造営であると考えられるそうです』


【苦ぬき地蔵尊】

【慈眼堂古墳】
『仙波古墳群の一つとなっています』


【慈眼堂】国指定重要文化財
『慈眼大師天海を祀る御堂です。天海僧正は寛永二十年(1643年)十月二日に寛永寺で入寂し、天保二年(1645年)に徳川家光の命によりこの御堂が建てられました。天海僧正の木像が安置されています』


【歴代住職墓所】
『慈眼堂の裏にあります』

【天海僧正墓碑】


【暦応の古碑】県指定史跡
『52名の喜多院(無量寿寺)の歴代の住職の名と見られる者を刻しています』

【延文の板碑】市指定考古資料
『暦応の板碑とならんで立っている延文三年(1358年)のこの板碑は高さ376cm、最大幅69.4cm、厚さ9cmで川越市で最大だそうです。僧1、法師2、沙弥32、尼21、聖霊4の60名が刻まれた結衆板碑です』

【松平大和守家廟所】市指定史跡
『松平大和守家は徳川家康の次男結城秀康の五男直基を藩祖とする御家門、越前家の家柄です。川越城主として在城は明和四年(1767年)から慶応二年(1866年)まで七代百年にわたり、十七万石を領しました。そのうち川越で亡くなった五人の殿様の廟所です』


【どろぼうばし】
『昔、この橋が丸木橋だった頃の伝承に由来する名前なのだそうです。その伝承とは、昔、町中で泥棒をした者が町奉行に追われ、この橋を渡り、喜多院の境内に逃げ込みました。泥棒は喜多院と東照宮の境内が御神領で、江戸幕府のご朱印地でもあり、川越藩の町奉行も捕まえることができないことを知っていたのでした。しかし、泥棒は寺男たちに捕まえられてしまい、厄除元三大師に心から罪を許してもらえるように祈り、改心し善人になりました。そこで寺では幕府の寺社奉行にその処置を願い出たところ、無罪放免の許しが出、その後町方の商家でまじめに働き、一生を過ごしたということです。それ以来、この橋を「どろぼうばし」と呼ぶようになったということです』

住所:埼玉県川越市小仙波町1-20-1
電話:049-222-0859
ホームページ:http://www.kawagoe.com/kitain/
●客殿・書院・庫裡・慈恵堂・五百羅漢
拝観時間
(3/1~11/23):午前8時50分~午後4時30分(日・祝日は午後4時50分)
(11/24~2/末):午前8時50分~午後4時(日・祝日は午後4時20分)
休館日:12/25~1/8、2/2~3、4/2~5、4月下旬、5月上旬、8/16
拝観料:大人400円、小・中学生200円
駐車場:500円(隣接の民間駐車場)
2011年10月16日投稿
今日は喜多院に行ってきました。
喜多院は正式には「星野山 無量寿寺 喜多院」と称し、天台宗の寺院で川越大師の愛称で親しまれています。
当寺の歴史はホームページによると
平安時代、淳和天皇の勅により天長七年(830年)慈覚大師円仁により創建された勅願所であって、本尊阿弥陀如来をはじめ、不動明王、毘沙門天などを祀り、無量寿寺と名付けられたのが始まりで、その後元久二年(1205年)兵火で炎上の後、永仁四年(1296年)伏見天皇が尊海僧正に再興させた時、慈恵大師(元三大師)をお祀りし、官田50石を寄せられ関東天台の中心になりました。正安三年(1301年)後伏見天皇が東国580ヶ寺の本山たる勅書を下し、後奈良天皇は「星野山-現在の山号」の勅額を下しました。更に天文六年(1537年)北条氏綱、上杉朝定の兵火で炎上しました。慶長四年(1599年)天海僧正(慈眼大師)は第27世の法灯を継ぎますが、慶長十六年(1611年)十一月徳川家康公が川越を訪れた時親しく接見しています。そして天海の意見により寺領4万8000坪及び500石を下し、酒井備後守忠利に工事を命じ、仏蔵院北院を喜多院と改め、4代徳川家綱公の時東照宮に200石を下すなど寺勢をふるいました。寛永十五年(1638年)一月の川越大火で現在の山門(寛永九年建立)を除き堂宇はすべて焼失しました。そこで3代将軍徳川家光公は堀田加賀守正盛に命じてすぐに復興にかかり、江戸城紅葉山(皇居)の別殿を移築して、客殿、書院等にあてました。家光誕生の間、春日局化粧の間があるのはそのためです。その他慈恵堂、多宝塔、慈眼堂、鐘楼門、東照宮、日枝神社などの現存の建物を数年の間に相次いで再建されました。
ということです。
家光誕生の間や春日局化粧の間が何で川越にあるのかとても不思議だったのですが、そういう理由だったんですね。日本三大東照宮の1つと言われる仙波東照宮(別途アップ)、日枝神社(別途アップ)も含めると広い境内で、日本三大羅漢の1つと言われる五百羅漢もあり、見どころ満載の寺院です^^
ところで、日本三大○○って異論がよくあるので調べてみたところ
日本三大東照宮の1つ目は誰でも知っている「日光東照宮(栃木県)」2つ目は「久能山東照宮(静岡県)」でこれは異論はないようですが、3つ目は「仙波東照宮(埼玉県)」「鳳来山東照宮(愛知県)」「滝山東照宮(愛知県)」などが挙げられていて、やはり議論が分かれるところのようですw
日本三大五百羅漢は一般的には「徳蔵寺(栃木県)」「建長寺(神奈川県)」「羅漢寺(大分県)」と言われているようです。喜多院は入ってない???でも喜多院のホームページには日本三大羅漢の1つと謳っています。そして多くのブログでも喜多院の五百羅漢は日本三大羅漢の1つですと紹介されています。えっ!まさか「日本三大五百羅漢」と「日本三大羅漢」って違うものなんですかね?まあもうどうでもいいですw 日本三大であろうがなかろうが、見て自分が良かったと思えればいいわけなので^^
喜多院は小江戸川越七福神第三番の大黒天です。
【喜多院正面入口】

【山門・番所】国指定重要文化財・県指定有形要文化財
『山門は四脚門、切妻造で本瓦葺。元は後奈良天皇の「星野山」の勅額が掲げれていたそうです。棟札も残っていて、天海僧正が寛永九年(1632年)に建立したもので同十五年の大火を免れた喜多院では最古の建造物です。番所は山門の右手に接続して立っていて間口十尺(3.03m)、奥行二間半(4.55m)、起(むくり)屋根、瓦葺の小建築で徳川中期以降の手法によるもので、県内に残るただ一棟の遺構だそうです』

『山門・番所の右手手前に白山権現社と天海僧正の像がありました』

【白山権現社】


【天海僧正像】
『顔が北野武さんに似ているような気がするのは僕だけでしょうか?』

『山門をくぐると正面に本堂(慈恵堂)が見えます』

『実際には僕は喜多院に隣接する有料駐車場側から入りました』

『駐車場側から入ると、写真では見えませんが右に多宝塔、右奥に本堂が見えます』

『喜多院は小江戸川越七福神第三番の大黒天です』

【本堂(慈恵堂)】県指定有形文化財
『慈恵堂は比叡山延暦寺第18代座主の慈恵大師良源(元三大師)を祀る堂です。大師堂として親しまれ、潮音殿とも呼ぶそうです』



『本堂からの境内の眺め』


【多宝塔】県指定有形文化財
『多宝塔は元々は山門と日枝神社の間にあった古墳の上に、寛永十六年(1639年)に建立されました。明治四十五年道路新設のため、慈恵堂脇に移築されましたが、昭和四十七年から復元のため解体が行われ、昭和五十年に現在地に完成したそうです。総高13m、方三間の多宝塔で本瓦葺、下層は方形、上層は円形、その上に宝形造の屋根がのっています』


【大黒天】
『本堂の右手にあります』

【客殿・書院・庫裡】国指定重要文化財
『拝観料は大人400円、小・中学生200円です。江戸城紅葉山(皇居)の別殿を移築した客殿(徳川家光誕生の間)書院(春日局化粧の間)庫裡(現在、寺務所)で構成されています。建物内は写真撮影禁止ですので、写真は撮っていませんので写真をご覧になりたい方はホームページでご確認ください。客殿は12畳半2室、17畳半2室、10畳2室があり、12畳半の1室が上段の間で床と違う棚があり、襖と壁面には墨絵の山水画があります。書院は8畳2室、12畳2室があります。これらの部屋は、この建物が江戸城にあった頃、徳川家光の乳母である春日局が使用していた部屋です』

【天海僧正お手植の槇】



『庫裡と慈恵堂を結ぶ渡り廊下』

【しだれ桜 家光公お手植桜(二代目)】


【遠州流庭園】

【客殿】

【庫裡】

『庫裡と慈恵堂を結ぶ渡り廊下』

『渡り廊下からの眺め。左手奥に多宝塔、右手に見えるのが慈恵堂です』

【五百羅漢】
『山門を入り右手にあります。川越北田島の志誠(しじょう)の発願により、天明二年(1782年)から文政八年(1825年)の約50年間にわたり建立されたもので、538体が鎮座しているそうです。ちなみに羅漢とは、煩悩をすべて断滅して最高の境地に達した人、狭義には小乗の悟りを得た最高の聖者のことだそうです』






『ヒソヒソと何を話しているんでしょうね?』

『蛇がいますよ』

『お二人とも何か悩んでいるようですね』

『こちらのお二人はお酒を酌み交わし楽しそうですね^^』

『とても良い笑顔ですね^^』

『マッサージ気持ちよさそうですね。左の方は早く僕の番にしてくれよって感じの表情でしょうかw』

【太子堂】

【鐘楼門】国指定重要文化財
『2階建ての階上に梵鐘が吊るされています。当時鐘楼門は喜多院境内のほぼ中央にあり、慈眼堂へ向う参道の門と位置づけられます。建立年代ははっきりとしていませんが、銅鐘に元禄十五年(1702年)の銘があり、その頃の造営であると考えられるそうです』


【苦ぬき地蔵尊】

【慈眼堂古墳】
『仙波古墳群の一つとなっています』


【慈眼堂】国指定重要文化財
『慈眼大師天海を祀る御堂です。天海僧正は寛永二十年(1643年)十月二日に寛永寺で入寂し、天保二年(1645年)に徳川家光の命によりこの御堂が建てられました。天海僧正の木像が安置されています』


【歴代住職墓所】
『慈眼堂の裏にあります』

【天海僧正墓碑】


【暦応の古碑】県指定史跡
『52名の喜多院(無量寿寺)の歴代の住職の名と見られる者を刻しています』

【延文の板碑】市指定考古資料
『暦応の板碑とならんで立っている延文三年(1358年)のこの板碑は高さ376cm、最大幅69.4cm、厚さ9cmで川越市で最大だそうです。僧1、法師2、沙弥32、尼21、聖霊4の60名が刻まれた結衆板碑です』

【松平大和守家廟所】市指定史跡
『松平大和守家は徳川家康の次男結城秀康の五男直基を藩祖とする御家門、越前家の家柄です。川越城主として在城は明和四年(1767年)から慶応二年(1866年)まで七代百年にわたり、十七万石を領しました。そのうち川越で亡くなった五人の殿様の廟所です』


【どろぼうばし】
『昔、この橋が丸木橋だった頃の伝承に由来する名前なのだそうです。その伝承とは、昔、町中で泥棒をした者が町奉行に追われ、この橋を渡り、喜多院の境内に逃げ込みました。泥棒は喜多院と東照宮の境内が御神領で、江戸幕府のご朱印地でもあり、川越藩の町奉行も捕まえることができないことを知っていたのでした。しかし、泥棒は寺男たちに捕まえられてしまい、厄除元三大師に心から罪を許してもらえるように祈り、改心し善人になりました。そこで寺では幕府の寺社奉行にその処置を願い出たところ、無罪放免の許しが出、その後町方の商家でまじめに働き、一生を過ごしたということです。それ以来、この橋を「どろぼうばし」と呼ぶようになったということです』

住所:埼玉県川越市小仙波町1-20-1
電話:049-222-0859
ホームページ:http://www.kawagoe.com/kitain/
●客殿・書院・庫裡・慈恵堂・五百羅漢
拝観時間
(3/1~11/23):午前8時50分~午後4時30分(日・祝日は午後4時50分)
(11/24~2/末):午前8時50分~午後4時(日・祝日は午後4時20分)
休館日:12/25~1/8、2/2~3、4/2~5、4月下旬、5月上旬、8/16
拝観料:大人400円、小・中学生200円
駐車場:500円(隣接の民間駐車場)
2011年10月16日投稿