静御前の墓 @埼玉県久喜市
2011年9月8日(木)
久喜市での仕事が早く終わったので、周辺散策をすることにしました。
スマフォ版じゃらん観光ガイドで近隣検索をしたところ、静御前の墓がある事が分かり、静御前といえば、源義経の愛妾だった女性という記憶しかなかったので、なぜこの地にお墓があるのか不思議に思い、見に行くことにしました。
JR東北本線、東武日光線栗橋駅東口からだと左方面へ50m程の場所、商店街「クラッセくりはし」の敷地の一角にあります。車で行く場合でもコインパーキングが駅の近くにあるので駐車場に困ることはありません。
説明板によると
静御前は、磯の禅師の一人娘として仁安三年(1168年)に生まれたといわれ、白拍子と呼ばれる美しい舞姫に成長いたしました。
干ばつが3年も続き、加えてその年も長い日照りで農民が大変に困っておりました。そこで後鳥羽上皇が寿永元年(1182年)、京都神泉苑に舞姫100人を選び「雨乞いの舞」を命ぜられました。最後に静が舞い始めると空がにわかに曇り、激しい雨が降り出し3日3晩も降り続いたといいます。後鳥羽上皇は、静が15才でありながら類稀な才能を賞嘆され、褒美に「蝦蟇龍(がまりゅう)」の錦の舞衣を賜りました。この衣は現在古河市中田町の光了寺に保存されております。
平氏追討に功績のあった義経の寵愛を受けた静が初めて義経に出会ったのもその頃のことでした。その後、義経は兄頼朝の不興を蒙り、奥州平泉の藤原氏を頼って京都を落ちのびました。静は義経を慕って京都を発ち、平泉へ向かいましたが、途中の下総国下辺見付近で「義経討死」の報を耳にして悲しみにくれ、仏門に入り義経の菩提を弔いたいと再び京都へ戻ろうとしました。しかし、重なる悲しみと馴れぬ長旅の疲れから病気となり、文治五年(1189年)9月15日、この地で死去したと伝えられています。
侍女琴柱がこの地にあった高柳寺に遺骸を葬りましたが、墓のしるしが無いのを哀れみ、享和三年(1803年)五月、関東郡代中川飛騨守忠英が「静女之墳」の墓碑を建立したものと考えられています。また、境内にある「舞ふ蝶の 果てや夢見る 塚の蔭」という歌碑は、江戸の歌人坐泉の作を村人が文化三年(1806年)三月に建立したものであります。
(注)公式には、静御前の生没年は、はっきりしていません。ここに記されている内容は当地の伝承をもとにしています。
久喜市教育委員会、静御前遺跡保存会
ということだそうです。久喜市指定文化財になっています。
「静御前の墓」とグーグルって見ると山口県阿東町、新潟県長岡市栃尾の静御前の墓も結果表示されました。歴史的に名を知られている人物でも謎の多い人物は各地でいろんな伝承が生まれるんでしょうね。しかも美女だったとくればなおさらかもしれませんw
愛する人を追っている最中、愛する人の死を知り、肉体的疲労に精神的ショックが加わり亡くなるなんて、栗橋の伝承はなんとも切なくなる話です(TT)
当地が本当の静御前の墓かは分りませんが、安らかに眠っていただけますよう拝んできました。
また、静桜(しずかざくら)という桜は静御前ゆかりの花で、里桜の一種といわれ、5枚の花弁の中に旗弁といって、雄しべが花びらのように変化したものが混じる特殊な咲き方をします。栗橋では静桜を町のシンボルとして大切に育て「静桜の里くりはし」づくりを進めているそうです。
桜の季節が来たら、是非再度栗橋に訪問してみたいです。
この咲き方って僕の地元志木市の長勝院の旗桜と同じですね。
【静御前之墓入口】

【静御前の墓】久喜市指定文化財


『写真左が静女塚碑で右が歌碑です』

【静御前七百五十年祭慶讃記念塔】

【墓所の様子】


『「クラッセくりはし」の一角あります』

【地図】
所在地:埼玉県久喜市栗橋中央1-2
2011年9月19日投稿
久喜市での仕事が早く終わったので、周辺散策をすることにしました。
スマフォ版じゃらん観光ガイドで近隣検索をしたところ、静御前の墓がある事が分かり、静御前といえば、源義経の愛妾だった女性という記憶しかなかったので、なぜこの地にお墓があるのか不思議に思い、見に行くことにしました。
JR東北本線、東武日光線栗橋駅東口からだと左方面へ50m程の場所、商店街「クラッセくりはし」の敷地の一角にあります。車で行く場合でもコインパーキングが駅の近くにあるので駐車場に困ることはありません。
説明板によると
静御前は、磯の禅師の一人娘として仁安三年(1168年)に生まれたといわれ、白拍子と呼ばれる美しい舞姫に成長いたしました。
干ばつが3年も続き、加えてその年も長い日照りで農民が大変に困っておりました。そこで後鳥羽上皇が寿永元年(1182年)、京都神泉苑に舞姫100人を選び「雨乞いの舞」を命ぜられました。最後に静が舞い始めると空がにわかに曇り、激しい雨が降り出し3日3晩も降り続いたといいます。後鳥羽上皇は、静が15才でありながら類稀な才能を賞嘆され、褒美に「蝦蟇龍(がまりゅう)」の錦の舞衣を賜りました。この衣は現在古河市中田町の光了寺に保存されております。
平氏追討に功績のあった義経の寵愛を受けた静が初めて義経に出会ったのもその頃のことでした。その後、義経は兄頼朝の不興を蒙り、奥州平泉の藤原氏を頼って京都を落ちのびました。静は義経を慕って京都を発ち、平泉へ向かいましたが、途中の下総国下辺見付近で「義経討死」の報を耳にして悲しみにくれ、仏門に入り義経の菩提を弔いたいと再び京都へ戻ろうとしました。しかし、重なる悲しみと馴れぬ長旅の疲れから病気となり、文治五年(1189年)9月15日、この地で死去したと伝えられています。
侍女琴柱がこの地にあった高柳寺に遺骸を葬りましたが、墓のしるしが無いのを哀れみ、享和三年(1803年)五月、関東郡代中川飛騨守忠英が「静女之墳」の墓碑を建立したものと考えられています。また、境内にある「舞ふ蝶の 果てや夢見る 塚の蔭」という歌碑は、江戸の歌人坐泉の作を村人が文化三年(1806年)三月に建立したものであります。
(注)公式には、静御前の生没年は、はっきりしていません。ここに記されている内容は当地の伝承をもとにしています。
久喜市教育委員会、静御前遺跡保存会
ということだそうです。久喜市指定文化財になっています。
「静御前の墓」とグーグルって見ると山口県阿東町、新潟県長岡市栃尾の静御前の墓も結果表示されました。歴史的に名を知られている人物でも謎の多い人物は各地でいろんな伝承が生まれるんでしょうね。しかも美女だったとくればなおさらかもしれませんw
愛する人を追っている最中、愛する人の死を知り、肉体的疲労に精神的ショックが加わり亡くなるなんて、栗橋の伝承はなんとも切なくなる話です(TT)
当地が本当の静御前の墓かは分りませんが、安らかに眠っていただけますよう拝んできました。
また、静桜(しずかざくら)という桜は静御前ゆかりの花で、里桜の一種といわれ、5枚の花弁の中に旗弁といって、雄しべが花びらのように変化したものが混じる特殊な咲き方をします。栗橋では静桜を町のシンボルとして大切に育て「静桜の里くりはし」づくりを進めているそうです。
桜の季節が来たら、是非再度栗橋に訪問してみたいです。
この咲き方って僕の地元志木市の長勝院の旗桜と同じですね。
【静御前之墓入口】

【静御前の墓】久喜市指定文化財


『写真左が静女塚碑で右が歌碑です』

【静御前七百五十年祭慶讃記念塔】

【墓所の様子】


『「クラッセくりはし」の一角あります』

【地図】
所在地:埼玉県久喜市栗橋中央1-2
2011年9月19日投稿