2012年12月15日(土)
今日は児玉郡神川町でゴルフでした。
スタート時間より、だいぶ早く到着しそうだったので、途中にあった大光普照寺に寄ってみることにしました。
大光普照寺は正式には「金鑚山 一乗院 大光普照寺(かなさなざん いちじょういん だいこうふしょうじ)」と号する天台宗別格本山で、金鑚大師(かなさなだいし)の愛称で親しまれています。
当寺の縁起は、天台宗埼玉教区のホームページによると
『通称金鑚大師、元三大師といわれている当山は、聖徳太子の創建で舒明天皇(629年~641年)の勅願寺と伝えられている。平安初期に仁明天皇の御代(833年~850年)伝経大師最澄の高弟慈覚大師円仁が入山、本尊に十一面観音を安置して天台宗の寺とし、金鑚山一乗院大光普照寺と名づけて開基となられた。初期天台の後援者は群馬県鬼石町の浄法寺や栃木県岩舟町大慈寺に関係する道忠禅師とその門下であり、円仁もその1人として第3代の天台座主となられ、天台教学を確立された方である。
その後平安中期になると第18代天台座主の元三慈恵大師(911年~985年)の御溜錫があり、ご自作の尊像を安置されたので元三大師の寺として世に知られるようになった。鎌倉時代中古天台といわれる時代になると、元三大師の高弟である恵心、覚運による恵檀両流の教学中特に恵心流の教学が、寛元年中(1243年~1247年)河田谷(桶川市)の泉福寺の中興信尊によって伝えられた。その弟子尊海は仙波(川越)無量寿寺を中興され、さらに弟子の寛海が北院(喜多院)、全海が中院を、盛海が長沼の宗光寺(栃木県二宮町)、豪海が当山に談林を開設した。(御伏見天皇御代1298年~1301年)これが関東三談林といわれ、江戸時代に寛永寺が創建され、歓学講院が開設されるとその傘下となる八箇檀林と拡大発展し、多くの僧侶を養成する学問所となったのである。
当山は武将による信仰もあり、永承5年(1050年)源義家東北征伐の戦勝祈願に霊験あり、寺領3千石と諸珍宝(現在神社々宝)を賜わった。下って戦国末期の永禄13年(1570年)には御嶽城主長井政実から3貫文・鉢形城主北条氏邦より5寛文の寺領寄進があり、また徳川家康より天正19年(1591年)11月に御朱印30石の寺領を賜わり大いに隆盛を見た。しかしその反面戦火もあり、天文21年(1552年)2月11日に小田原城主北条氏康と上杉傘下の安保氏との合戦で御嶽城が落城し、全山が焼失、唯一残ったのが天文3年(1534年)建立の邦の重文多宝塔である。失火では、元禄11年七堂伽藍を焼失し、文化5年(1808年)再建され、明治18年元三大師9百年御遠忌を記念して瓦屋根、さらに平成4年本瓦葺屋根に模様替えしたのが現在の本堂である。
金鑚神社との関係は源義家の戦勝祈願や、摩訶止観伊賀抄に永徳元年(1381年)11月26日始之、金鑚宮談所とあり、神仏習合によって別当寺であったことが明らかである。それが明治元年(1868年)神仏分離令によって分けられ、第57世金鑚広貫の弟子詮量房(立川円平)が複飾の上児玉大学と改名し、初代の神主となった。なお、天文3年(1534年)安保弾正全隆によって建立された国の重要文化財である多宝塔は、明治22年(1889年)7月11日付で埼玉県庁の依頼によって神社へ譲渡したのである。』
なのだそうです。
当寺は児玉霊場の第33番札所、関東百八地蔵霊場の第8番札所になっています。
大光普照寺に所蔵されている5点の古文書《「長井豊前守政実寄進状」「北条安房守氏邦寄進状」「僧正口宣案」「下文」「天海僧正補任状」》と「絹本着色 両界曼荼羅図 対幅」は神川町指定有形文化財となっています。
『道路から看板と山門が見えます』

『山門の右が駐車場です』

【山門】
『朱色なので、物凄く目立ちます』

【寺号標】

『山門をくぐると左手に本堂が見えます』

【門】

【手水舎】
『歴史を感じる手水舎です』

【本堂】


【照隅殿(ホール、事務室、宝物館、書庫)】

【縁起】

【大光普照寺古文書及び絹本着色両界曼荼羅図対幅説明板】神川町指定有形文化財

『山門から正面を見ると白い石塔と鳥居、社殿が見えます』

【皇軍戦歿忠魂供養塔】


【稲荷社】

『稲荷社の奥の山を見上げると何か建造物が見えます』

『鐘楼のようです』

【鐘楼】

住所:埼玉県児玉郡神川町二ノ宮667-1
電話:0495-77-2382
ホームページ:http://www.tendaisaitama.jp/sample/01.html(天台宗埼玉教区)
2013年11月17日投稿