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芥川龍之介文学碑 @東京都墨田区

2011年7月28日(木)
吉良邸跡(本所松坂町公園)に置いてあったパンフレットの周辺地図を眺めていて、当地が載っていたので行ってみました。両国公園の隣にある両国小学校の一角にありました。

説明板によると
『芥川龍之介は明治25年(1892年)3月1日、東京市京橋区入船町に新原敬三、ふくの長男として生まれました。辰年辰の日辰の刻に生まれたのにちなんで龍之介と命名されました。生後7ヶ月の時、母ふくが突然発病したために、本所区小泉町15番地(現両国3丁目)に住んでいたふくの長男芥川道章に引き取られ、13歳の時芥川家の養子となりました。
芥川家は旧幕臣で江戸時代からの名家で、道章は教養趣味が深く、文学、美術を好み、俳句や盆栽に親しむとともに南画をたしなみ、一家をあげて一中節を習い、歌舞伎を見物するなど江戸趣味豊かな家庭でした。
本所は龍之介の幼児時から少青年期までの大事な時期を育んだ場所で「大道寺伸輔の半生」「本所両国」などの作品にその一端を見ることができます。龍之介は明治31年回向院に隣接する江東尋常小学校付属幼稚園に入園、翌年同小学校(現両国小学校)に入学しました。明治38年(1905年)府立第三中学校(現両国高等学校)に入学、同43年成績優秀により無試験で第一高等学校第一部乙類に入学しました。その後大正2年東京帝国大学英文科に入学、同5年卒業しました。東大在学中、夏目漱石の門に入り同人雑誌「新思想」「新小説」に優れた短編を発表して文壇に華やかに登場しました。
この文学碑は龍之介の代表作の一つである「杜子春」の一節を引用したものです。この両国の地に成育し、両国小学校で学んだ近代日本を代表する作家、芥川龍之介の人生感を学び氏の文才を偲ぶものとして両国小学校創立115周年の記念事業として、平成2年10月に建立されたものです』

【芥川龍之介文学碑】
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ちなみに道路に掲示してある周辺地図を眺めると、JR総武線と並行する京葉道路の両国二丁目交差点と両国三丁目の丁度中間地点にある歩道橋の付近が「芥川龍之介生育の地」となっていましたが、記念碑などは立っていませんでした。

所在地:東京都墨田区両国4-26 両国小学校敷地の一角
2011年7月31日投稿

勝海舟生誕の地 @東京都墨田区

2011年7月28日(木)
吉良邸跡(本所松坂町公園)に置いてあったパンフレットの周辺地図を眺めていて、当地が載っていたので行ってみました。吉良邸跡から3分位です。両国公園の敷地内にありました。

【勝海舟生誕の地碑】
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【由来碑】
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『説明板がありました。書き込むの大変なので写真をそのまま載せておきます。横着してすいませんw ご興味のある方はお読みください』
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『丁度お昼時でしたので、サラリーマン、OLがベンチでランチをしてました』
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所在地:東京都墨田区両国4-25 両国公園内
2011年7月31日投稿

本所松坂町公園 吉良邸跡 @東京都墨田区

2011年7月28日(木)
本所松坂町公園吉良邸跡に行ってきました。
この公園は「忠臣蔵」で知られる赤穂義士の討入があった吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしなか)の上屋敷跡です。昭和9年3月、地元町会の有志が遺跡を残すため、旧邸跡の一画を購入し史跡公園として東京市に寄付したもので、昭和25年9月に墨田区に移管されたそうです。

泉岳寺に行った時にも思ったことなのですが、忠臣蔵は僕はあらすじ程度しか知りませんが赤穂藩主浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)が江戸城中松の廊下で吉良上野介義央に切りつけ、浅野内匠頭は切腹、吉良上野介はお咎めなし。赤穂の城は没収され家臣は離散。切りつけた理由が浅野が吉良に意地悪をされていた等の説があるようですが、意地悪されていたのが本当だとしてもいきなり切りつけるって・・・どうなのって僕は思うんですけどね。それで赤穂藩の家臣は自分達の君主が死んで、吉良がのうのうと生きているのが許せないから仇討ってことになったみたいですが、いまいち解せないんですよね。吉良が浅野を切りつけて殺したというのならまだ理解できるのですが・・・
浅野が吉良に切りつけるほど恨んでいた理由、吉良が相当の悪人だったことがはっきりしないと赤穂義士の正当性が僕には理解できません。吉良上野介義央は領地では評判が高かったらしいですからね。まあ人は少なからず何かしら表の顔と裏の顔の2面を持っていますから、評判が高いから善人であるとは言い切れないでしょうけどねw

僕は歴史小説はあまり好きではないのですが今度「忠臣蔵」を読んでみたいと思います。

【本所松坂町公園吉良邸跡】東京都指定旧跡
『周囲の石壁は、江戸時代における高家の格式をあらわす海鼠壁(なまこかべ)長屋門を模した造りになっています』
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『赤穂義士遺蹟 吉良邸跡と書かれた石碑が正面に立っています』
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『吉良上野介義央の屋敷は広大で、東西七十三間、東北三十五間で面積は約2550坪(約8400㎡)だったとされています。現在吉良邸跡として残されている本所松坂公園は、当時の1/86の大きさに過ぎません。吉良が隠居したのは元禄十四年(1701年)三月の刃傷事件の数ヶ月後で、幕府は呉服橋門内にあった吉良家の屋敷を召し上げ、代わりにこの本所二ツ目に新邸を与えています。討入りは翌元禄十五年十二月十四日ですから、一年半に満たない居住でした』
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【松坂稲荷神社】
『松坂稲荷は、徳川氏入国後、現在の社地たる松坂町方面に御竹蔵が置かれた当時、その水門に鎮座された「兼春稲荷」と古くこの土地周辺に祀られていた「上野稲荷」を合祀し、昭和10年に遷座されたものだそうです』
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【吉良上野介義央追慕碑】
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【吉良家家臣二十士碑】
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【吉良の首洗い井戸】
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【吉良上野介義央公像】
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【公園内の様子】
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【吉良上野介義央(1641~1702年)】パンフレットより
吉良家は清和天皇の後裔で先祖は足利左馬頭義氏。江戸城における一切の典礼を司る高家の地位を得たのは、祖父義弥の時です。寛永十八年生まれで三郎の幼名を名のった義央は、十三歳で将軍家綱に謁見しました。のちに京への使者を任され、立派にその大任を果たしたことから以後有職故実の家柄として重用されるようになりました。賓客を応待することにかけては、義央はまさに天才だったようです。
忠臣蔵では悪役に仕立てられた上野介でしたが、領地の三河の吉良(愛知県吉良町)では評判が高く、町の人は今でも「吉良様」と呼んで敬っている善政の殿様でした。新田の開拓や塩業の発展に尽力するなど、多くの事業で成功をおさめ、特に一昼夜で築いたと言われる長さ182mの堤があり、この治水工事で豊作が保証されたことから、今でも「黄金堤」と呼ばれています。領地に滞在している間は赤い馬に乗って領内を巡回するのを日課としており、「吉良の赤馬」は名君吉良様と共に今でもその名を残しています。

所在地:東京都墨田区両国3-13-9
2011年7月30日投稿
プロフィール

keny72

Author:keny72
4人家族で埼玉県志木市に在住。暇さえあれば、計画そこそこ、行き当たりばったりのぶらり散歩に出かける、アラフィフ放浪オヤジですwww

転勤で2013年4月から2018年3月の5年間、秋田県で単身赴任していたので東北地方の記事が多いです。

更新はかなりのんびりです(ブログタイトル通り)

ご近所散策、食べ物のネタが多いです。

更新が遅い故、季節外れの記事が多くなってしまいますが、その辺は大目に見て頂きたくお願い申し上げますm(__)m

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