湯島聖堂 @東京都文京区
2021年3月14日(日)
東京復活大聖堂(ニコライ堂)の見学を終え、湯島聖堂にやって来ました。
ホームページによると、湯島聖堂の由来は
徳川五代将軍綱吉は儒学の振興を図るため、元禄3年(1690年)湯島の地に聖堂を創建して上野忍岡の林家私邸にあった廟殿と林家の家塾をここに移しました。これが現在の湯島聖堂の始まりです。その後、およそ100年を経た寛政9年(1797年)幕府直轄学校として、世に名高い「昌平坂学問所(通称『昌平校』)」を開設しました。
明治維新を迎えると聖堂・学問所は新政府の所管するところとなり、当初、学問所は大学校・大学と改称されながら存置されましたが、明治4年(1871年)これを廃して文部省が置かれることとなり、林羅山以来240年、学問所となってからは75年の儒学の講筵は、ここにその歴史を閉じた次第です。ついでこの年わが国最初の博物館(現在の東京国立博物館)が置かれ、翌5年(1872年)には東京師範学校、わが国初の図書館である書籍館が置かれ、7年(1874年)には東京女子師範学校が設置され、両校はそれぞれ明治19年(1886年)、23年(1890年)高等師範学校に昇格したのち、現在の筑波大学、お茶の水女子大学へと発展してまいりました。このように、湯島聖堂は維新の一大変革に当たっても学問所としての伝統を受け継ぎ、近代教育発祥の地としての栄誉を担いました。
大正11年(1922年)湯島聖堂は国の史跡に指定されましたが、翌12年(1923年)関東大震災が起こり、わずかに入徳門と水屋を残し、すべてを焼失いたしました。この復興は斯文会が中心となり、昭和10年(1935年)工学博士東京帝国大学伊東忠太教授の設計と㈱大林組の施工により、寛政時代の旧制を模し、鉄筋コンクリート造りで再建を果たしました。この建物が現在の湯島聖堂で、昭和61年度(1986年)から文化庁による保存修理工事が、奇しくも再び(株)大林組の施工で行われ、平成5年(1993年)3月竣工いたしました。
なのだそうです。
国指定史跡になっています。
余談ですが
中国とは1000年以上前から交流が盛んで、お茶、箸、陶磁器などの日常品から民俗、儒学、仏教など様々な文化が中国から伝わってきました。この湯島聖堂建立もその影響の一つだと思います。
古代の中国は尊敬する国だったのだろうと想像するのですが、今の中国は如何なものかと思うのは僕だけではないと思います。物質的には豊かになったのでしょうが、心は貧しくなっている気がします。
『JR御茶ノ水駅を眺めながら聖橋を渡ります』

『橋を渡った先に湯島聖堂が見えます』

『東京は常にどこかで大きな工事が行われています。写真を撮る時に邪魔だなあと思うことがあります』

『橋を渡るとすぐに湯島聖堂に到着です』

【聖橋門】

【説明板】

【案内図】

【解説】
『近代教育発祥の地なんですね!』

【入徳門(にゅうとくもん)】
『入徳とは、朱熹(しゅき)の「大学章句序」「子程子曰、大学、孔子之遺書而初学入徳之門也。」によるものだそうです』


【扁額】

【水屋】

【杏壇門(きょうだんもん)】
『杏壇とは、山東省曲阜にある孔子の教授堂の遺址のことだそうです』




【扁額】

『頭が龍で尾が魚です。初めて見ました。鬼瓦でもなくシャチホコでもなく、なんだろうと思い調べたら、どうやら「鬼龍子(きりゅうし)と呼ばれる中国の魔除けだそうです』

【スダジイ】

【大成殿(たいせいでん)《孔子廟》】
『大成とは、孔子廟の正殿の名称です』

『立派ですね~(^^)』


【扁額】

【大成殿内部の様子】

【東廡(とうぶ)《東回廊》】

【西廡(せいぶ)《西回廊》】

【杏壇門裏面】

【案内板】

『入徳門に戻り、斯文会館に向かいます』

『ピンクの花が見えます。桜?梅?桃?』

『杏でした。杏の花は初めて見た気がします』

【杏】

『楷樹、孔子銅像、斯文会館が見えて来ました』

【楷樹・孔子銅像】

【楷樹】

【楷樹の由来】
『へ~楷書の語源なんですね!』

【孔子銅像】
『丈高15呎(4.57m)重量約1.5トンの孔子銅像は世界最大だそうです。世界最大の銅像が中国ではなく日本にあることが面白いですねwww』

【孔子銅像建立ノ記】

【休憩所・売店案内】

【斯文(しぶん)会館】


【仰高門(ぎょうこうもん)】
『仰高とは、「論語」子罕第九「顔淵喟然歎曰、仰之彌高、鑽之彌堅。」によるものだそうです』

【仰高門・斯文会館】

【標柱】

【説明板】

【正門】

【地図】
住所:東京都文京区湯島1-4-25
電話:03-3251-4606
ホームページ:http://www.seido.or.jp/
2023年10月24日投稿
東京復活大聖堂(ニコライ堂)の見学を終え、湯島聖堂にやって来ました。
ホームページによると、湯島聖堂の由来は
徳川五代将軍綱吉は儒学の振興を図るため、元禄3年(1690年)湯島の地に聖堂を創建して上野忍岡の林家私邸にあった廟殿と林家の家塾をここに移しました。これが現在の湯島聖堂の始まりです。その後、およそ100年を経た寛政9年(1797年)幕府直轄学校として、世に名高い「昌平坂学問所(通称『昌平校』)」を開設しました。
明治維新を迎えると聖堂・学問所は新政府の所管するところとなり、当初、学問所は大学校・大学と改称されながら存置されましたが、明治4年(1871年)これを廃して文部省が置かれることとなり、林羅山以来240年、学問所となってからは75年の儒学の講筵は、ここにその歴史を閉じた次第です。ついでこの年わが国最初の博物館(現在の東京国立博物館)が置かれ、翌5年(1872年)には東京師範学校、わが国初の図書館である書籍館が置かれ、7年(1874年)には東京女子師範学校が設置され、両校はそれぞれ明治19年(1886年)、23年(1890年)高等師範学校に昇格したのち、現在の筑波大学、お茶の水女子大学へと発展してまいりました。このように、湯島聖堂は維新の一大変革に当たっても学問所としての伝統を受け継ぎ、近代教育発祥の地としての栄誉を担いました。
大正11年(1922年)湯島聖堂は国の史跡に指定されましたが、翌12年(1923年)関東大震災が起こり、わずかに入徳門と水屋を残し、すべてを焼失いたしました。この復興は斯文会が中心となり、昭和10年(1935年)工学博士東京帝国大学伊東忠太教授の設計と㈱大林組の施工により、寛政時代の旧制を模し、鉄筋コンクリート造りで再建を果たしました。この建物が現在の湯島聖堂で、昭和61年度(1986年)から文化庁による保存修理工事が、奇しくも再び(株)大林組の施工で行われ、平成5年(1993年)3月竣工いたしました。
なのだそうです。
国指定史跡になっています。
余談ですが
中国とは1000年以上前から交流が盛んで、お茶、箸、陶磁器などの日常品から民俗、儒学、仏教など様々な文化が中国から伝わってきました。この湯島聖堂建立もその影響の一つだと思います。
古代の中国は尊敬する国だったのだろうと想像するのですが、今の中国は如何なものかと思うのは僕だけではないと思います。物質的には豊かになったのでしょうが、心は貧しくなっている気がします。
『JR御茶ノ水駅を眺めながら聖橋を渡ります』

『橋を渡った先に湯島聖堂が見えます』

『東京は常にどこかで大きな工事が行われています。写真を撮る時に邪魔だなあと思うことがあります』

『橋を渡るとすぐに湯島聖堂に到着です』

【聖橋門】

【説明板】

【案内図】

【解説】
『近代教育発祥の地なんですね!』

【入徳門(にゅうとくもん)】
『入徳とは、朱熹(しゅき)の「大学章句序」「子程子曰、大学、孔子之遺書而初学入徳之門也。」によるものだそうです』


【扁額】

【水屋】

【杏壇門(きょうだんもん)】
『杏壇とは、山東省曲阜にある孔子の教授堂の遺址のことだそうです』




【扁額】

『頭が龍で尾が魚です。初めて見ました。鬼瓦でもなくシャチホコでもなく、なんだろうと思い調べたら、どうやら「鬼龍子(きりゅうし)と呼ばれる中国の魔除けだそうです』

【スダジイ】

【大成殿(たいせいでん)《孔子廟》】
『大成とは、孔子廟の正殿の名称です』

『立派ですね~(^^)』


【扁額】

【大成殿内部の様子】

【東廡(とうぶ)《東回廊》】

【西廡(せいぶ)《西回廊》】

【杏壇門裏面】

【案内板】

『入徳門に戻り、斯文会館に向かいます』

『ピンクの花が見えます。桜?梅?桃?』

『杏でした。杏の花は初めて見た気がします』

【杏】

『楷樹、孔子銅像、斯文会館が見えて来ました』

【楷樹・孔子銅像】

【楷樹】

【楷樹の由来】
『へ~楷書の語源なんですね!』

【孔子銅像】
『丈高15呎(4.57m)重量約1.5トンの孔子銅像は世界最大だそうです。世界最大の銅像が中国ではなく日本にあることが面白いですねwww』

【孔子銅像建立ノ記】

【休憩所・売店案内】

【斯文(しぶん)会館】


【仰高門(ぎょうこうもん)】
『仰高とは、「論語」子罕第九「顔淵喟然歎曰、仰之彌高、鑽之彌堅。」によるものだそうです』

【仰高門・斯文会館】

【標柱】

【説明板】

【正門】

【地図】
住所:東京都文京区湯島1-4-25
電話:03-3251-4606
ホームページ:http://www.seido.or.jp/
2023年10月24日投稿